「たかじんのそこまで言って委員会」 日本と中国 国籍についての感覚の違い

 前回の続きです。
 日曜にテレビでやっていた「たかじんの反中で委員会」では、大陸出身で日本国籍の張景子さんと、台湾出身で最近日本に帰化した金美齢さんという、正反対の背景を持つ二人が、同じ場に揃って、まるで噛みあわない会話をするという、たいへん面白いシーンがありました。
 この話を聞いていて感じたのは、中国という国を、無理やり日本と同じ感覚で理解しようとしてしまうと、話はいつまでも噛みあわないのだろうな、ということです。

 テレビでの討論のテーマは、国籍というものをどう考えるかについてでした。
 張景子さんのスタンスは、「日本国籍は、海外に行くときに便利だから取得した。日本国籍だからといって、自分が『日本人』だと考えたことはない。日本人かと聞かれたら、日本国籍の朝鮮系中国人だと答える。国籍にこだわるのは古い考えだ」


 一方、金美齢さんのスタンスは、「今まで台湾のパスポートすらない状態でも日本に帰化せず、台湾の独立運動を続けてきたが、最近の台湾の政治に失望し、日本に帰化した。帰化によって、正真正銘の日本人になると心を決めたのであり、もし日本と台湾が戦うことがあれば、日本のために戦う」。

 日本人にとっては、金美齢さんのスタンスがわかりやすいと思います。国というものを自分の拠り所・運命共同体ととらえているからです。そこには、便利だから国籍を変えていく、という考えは無いのです。
 一方、張京子さんは、国をひとつの「機能体」としてとらえています。国という機能を活用するのであって、自分にとって最適な国を選べばよい。国籍とは便宜上のものであって、国籍と自らのアイデンティティーにはなんら関係はないという考えです。

 ここには、日本と中国における「国」というものの位置づけの違いが露骨にあらわれています。
 日本人にとって、日本という国は、人工的につくられた「機能」ではなく、日本人が生まれながらにして所属し生活している家族・地域が拡大した一つの集合体であり、自らの存在と切り離せないものになっています。極端に言えば、日本人は、日本という国の中にいてこそ存在できるが、そこから出てしまうと一人の人間として生命が維持できなくなってしまう。日本と言う国は、日本の「民族」そして「文化」と表裏一体になっているのです。

 これの対極にある国の姿がアメリカでしょう。アメリカという国はコンセプトと理念のもとに人々がつくった人工の「機能」であり、「文化」や「民族」とは関係のない存在です。アメリカ人が忠誠をつくすのは、アメリカと言う国の理念であり、コンセプトでしかありません。個人と国は独立した関係にあり、国の理念に賛同する人は参画すればよく、いやなら出ていけばよい。

 それでは中国はどうなのか?
 日本人は、中国と言う国を、自分達の国と同様に、民族・文化がベースになった国だととらえているのではないかと思います。しかし、私は、中国は、日本よりはむしろアメリカという国の形に近いと考えています。

 中国は、多くの異なる言葉、異なる生活習慣、異なる容貌の人々が集まった他民族の国です。中国という国は、日本のような一つの民族・文化レベルでの国ではなく、それより大きな概念での、いわば一つの「世界」に相当すると思います。これは、いろいろな民族をとりこんで肥大化した現代における「他民族国家 中国」について言えるだけでなく、その下の「漢民族」レベルでも同じことです。「漢民族」というのは、日本における民族よりももっと大きな概念であり、日本の感覚でいえば多くの民族の集合体です。

 中国を中国として成り立たせているのは、日本のような一つの民族の「文化」ではなく、「文明」です。歴史的に、周囲に文明地域がまだなかった時代から、中国で一足早く勃興した文明、これが中心になって、周辺地域を含んだ一つの中国文明という世界がつくられてきました。
 この世界においては、文明の最も進んだ中心が最も明るく、周辺地域へ行くほど暗い、という感覚があります。これが、よく昨今でもよく非難されることの多い「中華思想」にそのままつながっているのです。
 「中華思想」を日本や韓国における「民族主義ナショナリズム」と同じ感覚でとらえては判断を誤ります。本来、文化と文明を同じ俎板で論じてはいけないのです。

 中国というのは、その文明に参画する限り、誰もがジョインできる、非常に敷居の低い、ゆるい共同体です。つまり誰もが参画できるし、いやなら勝手に出ていける存在なわけです。

 その中で重要な役割を果たしているもののひとつが、中国世界における共通コミュニケーション手段として進化してきた、漢字を媒体とする言語です。これも、異なる背景を持つ人たちが互いに理解しやすいように、言語の構造は単純になっており、表現においても微妙なニュアンスは少なく直截的であり、外部の人にとって比較的学びやすい言語になっていると思います。
 日本語のように、限られたメンバーの中で長期間使われてきたことによって、複雑化し微妙なニュアンスを持つようになった言語とは対象的です。 

 しかし、「文明」を中心に形作られた国は、その文明が相対的に、先進性や優位性を喪失した場合には自らの求心力を失ってしまう、という定めをもっています。よって、近代に入り欧米列強が中国へ力を伸ばし始めると、中国はバラバラになってしまい、一つの国とは言えない状態になってしまいました。それを再び統一したのは、共産党ですが、ここで再び共産主義という思想=文明が登場してくるのです。
 1979年から始まった改革開放路線の時代において、国をつなぎとめているのは、経済発展という極めて現実的なコンセプトですが、これも極めて即物的であり、文化的というより、文明的なものでしょう。

 このように、中国という国自体が、文化とは別の次元でつくられている国であるがために、一般に中国の人達は、日本人とは異なり国というものに対する執着・こだわり・愛着は薄いようです。昔から、国を出て海外で活動している中国人は数知れませんが、彼らに対して国を捨てた、と非難する感覚はないようです。
 しかも、同じ中国人であっても、「北京愛国、上海売国、広州出国」と言われるほど、地域によっても国民気質もバラバラです。
 こういう中国で生まれ育った人を、日本人の価値観の尺度で判断しようとしても難しいでしょう。

 世の中には、日本人の感覚では計り知れないものがある、ということを素直に認識しなければ、判断を誤ってしまうことがあります。最近活動が盛んな、クジラ漁に反対するシーシェパードのことを、「自分たちの価値観に凝り固まった偏狭な視野の人たち」だと思っている人は多いと思います。しかし、自分たちも、知らず知らずのうちに、同じようなスタンスをとってしまうこともありうるのです。