「現場からの中国論」大西広著

 とりあえず最近読んだ本について思うところを書いてみたいと思います。

 最近の中国関連の本は、安易な中国バッシングに偏りすぎているように思えます。中国を叩く内容は、わかりやすく面白いので、商売的には売れるのでしょうが、あまりにこればかりになってしまうと、一般の日本人にとって、中国は極悪非道の国としか見えなくなっているのではないかと思います。
 物事にはいろいろな見方がありますし、日本では「言論の自由」が保証されているのが前提ですので、どんな本があっても良いとは思うのですが、いくら何でも、もう少しバランスのとれた視点で書いている本はないのだろうか、と考えていたときに、手に取ったのがこの本です。
 
 中国で数年間生活し、多くの中国人とつきあってきた私の感覚からすると、この本に書かれているいくつかの内容は、「まさにそのとおり」、と手を打つような内容です。ですが、昨今の、日本人の尺度で一方的に物事を判断する中国脅威論・悪者論に慣れ親しんでいる一般の日本人にとっては、なかなか感覚として理解しがたいことかも知れません。

本の中から、いくつか例を挙げます。

ウイグルチベットなどの少数民族問題については、「漢族が支配を狙っている」という報道が日本でよくなされているが、実際のところその背景には、漢族との経済的格差の問題、さらにはどうしてもそうした差を生みだしてしまう民族性の差が存在しているということ。わかりやすく言えば、根っから商売が得意で機転が効き、アグレッシブな漢族がどこでも経済を牛耳ってしまい、地元のおとなしい少数民族との間に、資本家・労働者の関係ができてしまうということがある、と述べています。

 これは私も生活感覚として、非常に感じるところです。
 同じような中国内の少数民族でも、朝鮮族の場合、こうした漢族との民族間対立は表面化せず、むしろ中国の少数民族政策を評価する人が多いという事実(私がよく耳にしてきたことです)とも合致しています。

・「漢民族」とは、もともと顔も言葉も異なるいくつもの民族が、実利的に有益なものをどんどん取り入れていくという節操のない文化のもとで、「漢字」という文明を共有することによって、「漢民族」という一体感を生み出してきた、つまり「自分が何族だったかを忘れた人の集まり、民族に関わらなかった人間たちの集まり」であり、そうした「文化的無頓着さ」が発展の原動力だった、と述べています。

 これも私の実感とぴったり合います。日本人の感覚からすると、中国の「漢民族」も「日本民族」と同様に、文化的に均一でまとまりのある一つのかたまりとしてとらえがちですが、実際の漢民族は日本人の感覚からするといくつもの民族の集合体です。地域によって、言葉も身体も、考え方も違う。最近になって、交通やコミュニケーションの発達で状況が変化してきてはいますが、基本的に、日本のような、明確に他と区別できる一つの民族の姿が存在しているわけではない。よって、日本や韓国における民族の概念と、中国における民族とを同列に扱うことは誤解を招く恐れがあります。


 本の前半部分は、面白い話が続くのですが、後半は社会主義特有の社会の発展段階説の話など、社会主義的な内容になってきますので、私はあまり興味を持てませんでした。
 また、内容が新聞に連載したものをベースにしているので、個別のテーマそれぞれについて突っ込みが少なく、もっと語ってほしいのにと、欲求不満になります。特に、日本の昨今の中国報道スタンスとは異なる視点で語られていますので、もっと踏み込んで丁寧に説明していかないと、一般の方には理解しにくいのではないかとも思います。いずれにせよ、タイトルにもありますように、「現場」の視点から中国を語ることは、バランス良くありのままの中国を捉えるためには不可欠だと思いますので、こうした本が、より多く出版され得る状況になることを期待しています。