「『坂の上の雲』に隠された歴史の真実」 福井雄三著

 坂の上の雲」のTVドラマ放映が始まりましたので、書店では関連書籍が平積みされています。この本も、もともと2007年に文庫化されていた本ですが、最近重刷されたようです。文章はとても読みやすく書かれています。

 この本のテーマは、戦後の社会に大きな影響を与え、単なる小説としてだけでなく、歴史書としてまで扱われるようになった「坂の上の雲」について、歴史書として見た場合の課題点を指摘し、今まで批判がタブーのようになっていた「司馬史観」について疑問を投げかけるということのようです。

 この本で取り上げられているトピックは以下の4点です。

1.旅順攻防戦における「乃木無能説」は正しいか?

2.ドイツにおけるユダヤ人大迫害の背景には、虚構のナチスプロパガンダに活用した「あいくち伝説」があった。司馬史観においても、虚構を実像として見誤ると、日本をナチスドイツと同じような誤った方向に導いてしまう恐れはないか?

3.ノモンハン事件は、陸軍の暴走が原因であり、結果、完敗したと言われているが、正しいか?

4.司馬史観は「明治は良かったが、昭和は暗黒」としているが、それは正しいか?

 この本のタイトルは「『坂の上の雲』に隠された歴史の真実」とあるのですが、こううやって見てみると、タイトルに直接関係あるのは、1だけであり、あとは、大きく司馬史観について語ると言う内容になっています。マーケティング的に大衆受けする「坂の上の雲」というテーマを「つかみ」にしてはいますが、実際に著書が語りたいのは「東京裁判史観」への反駁だろうと思います。

 特に、2のユダヤ人迫害の件は、これを「坂の上の雲」と結びつけるのは多分に牽強付会であり、恐らくざっと読んだ人の大部分は、なぜこれが「坂の上の雲」と関係があるのか、わからないのではないかと思います。
 私も著者のストーリーがよく理解できないのですが、恐らく、著者が書きたかったのは、「あいくち伝説」という虚構をベースにしたプロパガンダがドイツを破滅へ導いたということよりも、戦後のドイツにおける、「戦争責任ストーリー」づくりにおける虚構、つまり戦前のナチスの行ったことをすべて悪とし、全ての責任をそこに押し付ける、という今では一般的になった考え方に対して、虚構ではなく、実像を捉え、戦前のドイツをきちんと再評価すべし、という点にあるかと思います。

 さて、「司馬史観」とはどういうものでしょうか?
 私の理解する「司馬史観」を乱暴に表現すれば、合理性の追求による社会の発展、それに相反する昭和の精神主義権威主義の否定。それによって、国際社会と協調しながら日本が発展することができる、ということです。
 それを実践してきた例として、「坂の上の雲」での日露戦争までの日本や、「菜の花の沖」での高田屋嘉兵衛、「竜馬がゆく」での坂本竜馬などが登場してきます。


 一方、この本の著者の史観は以下の通りではないかと思います。 
 1.戦前がすべて暗黒なわけではない。戦後、「東京裁判史観」によって、恣意的に戦前の日本が否定されてきた。戦後の経済発展のベースは、基本的にすべて戦前に形作られている。

2.戦後日本は、経済成長だけを追求し、本来立脚していた自らの価値観の基本ベースを否定してしまったため、経済力だけで魂の抜けた、かたわ状態の国になってしまった

3.敗戦のショック以来日本を支配してきた「東京裁判史観」を脱し、戦争を総括し直すことが、真の意味での独立国家となるためには不可欠である。
 以上の3点については、私も大筋として同感です。
 しかし、私が違和感を感じるのは、上記の3点は、東京裁判史観に対する反駁でしかなく、「真の意味での独立国家」となった後に、どうなりたいのかのビジョンが見えないことです。また、なぜ日本は、負ける可能性の高い戦争に踏み切って国を崩壊させたのか、という点への突っ込みもありません(これはほかの本には書かれているのかも知れませんが)。
 日本が強い国になって、それでどうなるのか?
 外国と力で対抗できるようになることはいいことでしょうが、それによって世の中・世界はどう良くなっていくのでしょうか? 

 「司馬史観」においては、合理性の追求による世界の発展、というビジョンがありました。
 戦後一世を風靡した左翼思想においては、その実現性は別にせよ、世界に平等な社会を作る、という国を超えたビジョンがありました。

 著者の言われていることは、それはそれでもっともなのですが、それは基本的に帝国主義時代であった19世紀の時代のテーマのように思えます。現在の21世紀の世界においては、各国の民族自立、という段階を超え、その先にどういうビジョンを描いていくのかが、トピックになっているのであり、戦後社会において、先進主要国は着実にその歩みを続けてきています。
 英・仏は、140年の間に少なくとも5回の戦争を行ったという経験を踏まえ、欧州統合へ向けて歩みを進めてきました。その先のビジョンがあるからこそ、たとえそれが表面的・外交的なポーズであろうとも、戦争責任はまず片づける、という態度をとり、大きな方向性をぶらさず着実に進歩を進めてきたわけです。

 私が危惧するのは、著者の物言いでは、戦後の日本が極端な左翼思想に振れたのと同様に、今度は、一般大衆を、わかりやすいナショナリズムの方向にあおり、結果として戦前に逆戻りさせてしまうのではないかということです。
 ナショナリズムに陥るのはあまりに易しい。誰でも、日本の良いことや、他国からの理不尽な誤解への反駁を読めば、気分はスカッとします。
 しかし、他の国と協調した世界の進歩を進めるのは実に難しい。それらは、一般大衆にとって、あーでもなく、こーでもない、という切れ味の悪い話になりがちです。しかし、現実の世界はスカッとする話ばかりではありません。著者が、司馬史観を評して「明治は良かったが、昭和は暗黒」などとスカッと割り切ることなどできない、と言っているのと同じことです。
 そんなすっきりした話を国民に信じさせて、ナショナリズムをあおっている国の代表格が、アメリカと中国でしょう。特に最近は、中国を取り合げて、対抗すべき、とあおっている論調が多く見られます。しかし、われわれが、今この21世紀にベンチマークすべきなのは、中国でしょうか?日本はもっと社会的・政治的にもはるかに成熟している国のはずです。先進国としてとるべき日本の態度とはどういうものなのでしょうか?(小泉さんに聞いておかなければならなかった質問ですね)

 いずれにせよ、昨今の日本の風潮をみると、日本はこのままでは確実に右傾化し、世の中の進歩から逆行していくことになります。

 日本と近隣諸国の間にはまだ戦争が足りないのかも知れません。
 第2次大戦における、中国との戦争は、中国という国家があまりに未成熟でばらばらだったために、「国対国」という戦争を戦ったとは言い難い。またその他のアジア諸国とは、日本は基本的に戦争をしていません(戦争の舞台になった国は多いですが)。

 独仏のようにいやというほど戦争を繰り返し、国民がとことん疲弊することが、双方が次の段階の世界を求めるための必要条件なのかも知れません。