「ドイツは過去とどう向き合ってきたか」 熊谷徹著

 ここのところ日本の戦争責任について書いてきたのですが、日本の戦争責任の取りかたを評価するにあたって、いつも引き合いに出されるのはドイツの事例です。日本=悪い例、ドイツ=良い例、というのが今まで良く言われてきたことだと思います。

 そこでドイツの過去の責任への対応について知るために、簡単に読めそうな本と言うことで、ブックレット形式のこの本を読んでみました。
 「ブックレット」という形式の本を見ると、昔懐かしい左寄りの本かと思ってしまうのですが、読んでみると、意外に客観的に書かれている本です。ドイツの公式対応と、それに対する反対の世論について、一方的に決め付けた論調ではなく、さまざまな視点からの事実を語っています。


 この本を読んでわかったのは、以下の4点です。


1.ドイツでも、戦後すぐから、過去の責任を全面的に認め、対応をとってきたわけではない。60年代から段階的に範囲を広げ、手を打ってきた。その範囲は、新たに過去の歴史事実が明らかになったり、社会全体として訴訟リスクなどコンプライアンス上のリスクが増大するにつれ、現在まで年々拡大する傾向にある。


2.国にとっても、また関係する企業にとっても、歴史責任問題を「リスク」とみなし、リスクを最小化するために、積極的に先手の対応をとってきた。それによって、攻撃に対しては、「すでにここまで対応をしてきている」という事実で、対処することができた。


3.いったん決めた公式見解をぶらさず、それをとことん実施するという一貫した態度をとることによって、関係国との間に強固な信頼を築くことができた。


4.過去の責任については、「国」や「ナチ」というレベルでなく、あくまで「個人」にあったという考え方をとっている。それによって、戦後のドイツという国家には責任はなく、ナチに加担した個人に罪があったということで、自分たちに罪が及ぶことを防ぐことができた。


 ドイツの歴史問題は、日本とはレベルが異なります。日本におけるそれは「戦争責任」という、歴史上他の国でも発生しており、もし日本が戦争に勝っていれば、存在しなかったような、ある面、相対的なものなのに対して、ドイツのそれは、「ホロコースト」という、戦争とはまるで違う種類のものです。

 さらに日本の戦争責任で話題となるさまざまな残虐行為(東京裁判ならB級戦犯と呼ばれていたもの)は、上層部の直接的な指示で行われてたことは少なく、現場のオペレーションレベルで起きたことが大部分です。上層部がもしそれを知っていたならば、少なくとも建前上は、それを止めさせるための策を取っていたはずだと思われます。
 それに対して、ドイツにおける、「人道上の罪」(C級戦犯)と名付けられたホロコーストは、上層部が指示し、それを効率に実施するための仕組み・システムまでをつくりあげ、それに参画したドイツ人はそれを適切に実行する、という明確に意図的なものです。
 上層部のコントロールがきかず現場で勝手に犯罪行為を行っていた日本の事例と、上層部の指示でシステマティックに犯罪を実行したドイツの例を、同次元で単純に比較することは誤りだと思います。(聞くところによると、最近中国などからは、日本の戦争犯罪ホロコーストを同一視するような指摘もあるようですが)

 よって、敗戦後のドイツにとっては、このあばかれてしまった歴史上の恥部を、なんとしてもひとびとの記憶の奥深くにしまいこんでしまい、取り沙汰たされないようにしなければならなかったはずです。
 そのために、ドイツが行ったのは、「ナチ=悪」というシンプルなストーリーでした。ナチに加担し、あるいはその指示を拒否しなかった人たち個人に罪がある。ひっくり返せば、それ以外の人たちには罪がなかった、ということです。

 しかし、この考えには、日本人である私としては違和感があります。どう考えても、戦前のドイツではナチは圧倒的なドイツ国民の支持を受けていたはずです。曲りなりにも民主主義国家であったドイツでは、ナチの政策は、選挙を通じてドイツ国民の審判を受けていたはずです。ホロコーストの具体的なやり方を知っていた人は少なかったとしても、ユダヤ人狩りが行われていた程度のことはみな知っていたでしょう。個人の罪をウンヌンするならば、政府に対する反対活動をしていた少数のドイツ人以外を除けば、一般のドイツ人はみな「不作為犯」になってしまうのではないでしょうか。また、組織の一員として上司の指示で行った行為により罪を問われた人は、当時のドイツの社会の中で、いち個人として、上からの命令を断ることが現実的に可能だったのでしょうか?
 個人主義であるドイツ人にはこの考え方はなじむのかも知れません。仕事上の経験から言っても、日本では上司に対して、会議の場で堂々と反対意見を言うことは普通ありませんが、ドイツでは、自分の意見を言う傾向が比較的強いのは確かです。しかし、集団でものごとを考え、行うことがベースになっている日本人の私には、この「個人の罪」という切り口で、シンプルに犯罪を定義していくやり方は理解しがたいものがあります。



 もうひとつ、感心したのはドイツにおける、施策の「徹底度合い」です。
 戦争責任については、ドイツでもさまざまな意見があるはずですし、特に敗戦のドサクサに領土を大幅に奪われたポーランドとの国境地域の問題など、大多数のドイツ人は内心文句があるイシューもあります。個人の罪を問うやり方も、かなり乱暴な考え方です。
 しかし、いくらストーリーが乱暴だろうと、国としていったん公式見解を決めたらそこからぶれない。そのストーリーのもとで、先手先手を打ち、外から文句を言わせない。その徹底ぶりは見事です。その一貫した態度によって、他国からの信頼が得られるのです。
 国内の意見を統一できず、その脇腹の弱さがあるがために、外からいろいろ言われるたびに、その都度対応で言っていることが二転三転し、挙句の果てに逆切れして、前後のつじつまが合わない本音が出てしてしまったりする日本の状況は、中にいる日本人にとっては理解できても、外から見るとまったく理解不能なのです。


 それでは日本にドイツのようなやり方ができるのか?
 おそらく日本ももっとうまくはできたはずです。少なくとも敗戦後、天皇の戦争責任を明確化するなどしていれば、その後ははるかにうまく立ち回れたはずです。
 しかし、このドイツのやり方を見ていると、日本とドイツとの「文化の違い」を感じざるをえません。「文化」の話をすると、ロジカルな議論の積み上げが無意味になってしまうようで嫌なのですが、ロジックで切り分けて言った後に最後に残ってくる違いは「文化」です。
 日本の文化においては、過去にさかのぼって、とことん個人の罪を追及しているような発想は弱いでしょう。あくまで集団が活動のベースになっている以上、過去を追及していくということは、そのまま今まで続いている自らの集団を追及していくことになってしまいます。集団でものごとを進めている以上、常に責任の所在はあいまいです。
 しかし、日本を一歩離れれば、この日本文化に根差した発想を理解できる人々は殆んどいないのです。反対にドイツの考え方は、たとえ乱暴であっても、誰にでもシンプルに理解される。
 長い歴史で形成されてきた日本の文化を変えることはできません。
 それならば必要なのは、

1)日本以外の人にも理解できるロジック、作法で、説明をすること。

2)日本の文化自体を理解させる、あるいは少なくとも日本には違う発想の文化があるということを理解させるよう、啓蒙すること。(例えばドイツは「ゲーテ インスティチュート」をあつこちにつくり、中国は、「孔子学院」を積極展開しています。)

のどちらかでしょう。
 しかし、戦後の日本はそのどちらにも真剣に取り組んできたようには思えないのです。