「脱日する韓国」 澤田克己著 を読む



 4年ほど前に買ったのですが、読むことがなくずっとそのままになっていた本です。今日、本棚にあるのを見つけ、あらためて読んでみました。

 著者である澤田氏は、私がその昔、韓国に留学していた当時('89年)の友人です。大学3年次を終えてソウルに1年間の留学に来ていた仲間達の一人でした。慶応を休学して延世大学校の語学堂に留学してきたこの澤田君、同じく大学を休学して延世大に留学に来た私に加え、上智から西江大に交換留学に来ていた渡辺君、というのが学生街である「新村」周辺に下宿する同じ境遇のメンバーでした。渡辺君はJALに就職後、残念ながら20代の若さで亡くなってしまいましたが、澤田氏はその後、新聞記者としてバリバリと活躍されているようです。

 私は、韓国留学から帰り就職した今の会社で、中国研修生として上海に語学留学をしたことから、その後韓国ではなく、中国専門要員として中国ビジネスにどっぷりつかることとなりました。ここ数年は、その中国からも離れ、欧州がメインのフィールドになっています。この20年間のあいだ、韓国へは短期間の旅行では数回行っていますが、基本的には韓国の人たちとは没交渉でしたので、韓国語もすっかり出てこなくなってしまいました。
 一方の澤田氏は、99年から04年まで新聞会社のソウル特派員として赴任していますので、この20年間の間も、継続して韓国社会をウォッチしてきていることになります。私のように20年前の学生時代の視点から認識が止まってしまっているのではなく、より広い視野と時間軸という視点から韓国と言う国・人を理解してきているのでしょう。


 この本で書かれているのは、過去にはあれほど強く、日本人には頭の痛かった韓国での「反日」が、今ではすでに時代遅れになってしまっているということです。その背景には、経済が発展し、日本に依存することもなくなった現在の韓国にとって日本はすでに特別な国ではなくなった、という事実があります。
 昔、「日本はない/일본은없다」(田麗玉著)という韓国でベストセラーになった「反日」本がありました。当時の韓国では何かにつけ、日本という、先を行く存在を意識しなければならなかったからこそ、あえて日本を意識するな、という主張に独自性があったのです。ところが今では当時とは異なり、愛憎の対象として否応なしに意識せざるをえない日本という存在は、本当に「なくなってしまった」ようなのです。


 澤田氏は、韓国における「反日」の原動力を以下の二つの要素に分解・解析します。

(1)儒教の道徳志向性
 儒教においては、「道徳的であるか」「正しいことであるか」が、物事の判断基準として重視される。孔子は君子の条件として、統治能力(治人)よりも道徳性(修身)を重視している。反対に日本人は、より現実主義的傾向が強く、「名を捨てて実をとる」。
 歴史認識においても、韓国においては、道徳的・道義的に「正しい歴史認識」は何か、という観念がある。一方、日本人は「歴史認識は相対的なもの」と認識しているため、こうした絶対的な考えを理解できない。さらに、韓国人には、日本人がそうした観念を理解できない、ということ自体が理解できない。よって、韓国はいつも日本が歴史に対して「正しい認識・態度」で臨んでいないと反発することになる。
 日韓の歴史認識の食い違いは、「加害者はすぐ忘れるが、被害者は忘れない」という言葉で表現されることが多いが、実際にはこうした意識の差が大きな影響を与えている。


(2)現実的制約
 儒教の考え方においては、序列が上のものに対しては、より高い道徳性を求める。しかしその一方で、現実の世界においては、序列が上の強いものに対して反発することには制約がある。冷戦時代に韓国が生きていくためには、日本や米国に反発することは難しかった。よって、儒教的な観念に基づく強い「反日」には、現実的な制約からブレーキがかけられバランスがとられることになった。

 現在においては、日本がかつての強さを失い、韓国より序列が上という意識がなくなってきたため、自分たちより強い日本を意識した「反日」は、社会全体としては見られなくなってきた。しかし、一方で、国際関係における現実的な制約というタガが外れてきたため、(1)における儒教的・道徳的な「反日」がより純粋な形で噴出するようにもなってきた。盧武鉉大統領の反日発言には、この要素が強くあらわれている。また、昨今の「反米」の広がりもこのロジックで説明ができる


 (1)の道徳志向性は、私が韓国にいた当時も漠然と感じていたことでした。韓国人がなぜ「反日」なのか、という背景には、韓国人が、日本と言う国を日本人が考えている以上に「大国」だと考えており、だからこそ、兄貴としてふさわしい度量のある態度を示すべきだ、と考えていることが感じられたからです。一方で、日本人は、日韓関係を単なる普通の国と国の関係としてクールに見ている。ここに感覚のずれがありました。当時の日韓関係においては、圧倒的に韓国が日本を意識している、それに日本が応えないから、結果「反日」になってしまう、というパターンがあったと思います。
 こうした現象が、儒教における「道徳志向性」に根付いているという論理的ロジックは、面白い指摘です。
 (2)の冷戦体制の崩壊という世界の変化が、「反日」に影響を与えているという視点も、新たに気付かされた内容です。


 このロジックで韓国と中国の関係を考えるならば、この時点ですでに澤田氏が指摘しているように、中国が強くなるに従い、韓国は中国に対しより高い道徳性を求めるようになりますが、実際には中国がそうした態度をとらないことによって、韓国における「反中」がどんどん強くなっていくことが予測されます。現実に、韓国においては、すでに「反中」が相当強くなっていると思われるのですが、そうでなければ、韓国には中国と言う歴史的な親分に対する、日本に対するものとは違う特殊な感情があるのかも知れません。



 かつて、私が韓国に留学していた当時は、韓国は上から下まで「反日」という国是で固まった国であり、その中で日本人として存在することには緊張感がありました。周りがすべて敵のような状態で、一人で日本を代表しなければならないという経験は、20歳そこそこの私にとって非常に良い経験となりました。
 一方で、韓国の人たちは、日本と言う国・日本人を非常に意識し、興味を持ってくれていましたので、留学しその国の人たちと交流する、という目的においてはたいへん良い環境だと言えました。みな、普通の下宿屋さんに韓国人学生と一緒に住んでいる珍しい日本人の青年を放っておいてくれなかったのです。初対面でも「日本人は嫌いだ」と平気で言ってくる人や、何かにつれ嫌がらせをしたりする人もたくさんいましたが、その背景には、良きにせよ悪きにせよ相手に非常に興味を持ってくれているということがありました。
 この本を読むと、こうした状況も今ではすっかり変わってきているようです。韓国が発展するにつれ、日韓が普通の国と国の関係になっていくことは当然の帰結でしょうが、一方で当時の何事につけ熱かった韓国の人たちもまた懐かしく思えるのです。