「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵著 を読む

 年初に会社の組織変更があり、それ以来あまりに仕事が多忙になり、このブログもずいぶんとほったらかしになっていたのですが、今日は久々に少し書いてみます。

 「中国人エリートは日本人をこう見る」
 Facebookで紹介されているのを見て読んだ本です。
 文章はとても読みやすく、この週末にいっきに読んでしまうことができました。


 
 最近の日本では、圧倒的な国力を背景に、既存の世界のルールを無視しますます自己主張を強める「中国」という存在を、警戒し敵視する意見が支配的になっています。
 書店へ行けば、扇情的なタイトルの、赤い表紙の本がずらりと並んでいます。
 そこでは中国という国も、そこに住む人たちも、不気味なカタマリとして、観念的にひとまとめにされているように感じます。


 しかし、この本のアプローチは、昨今の時流に乗ったそうした扇情的な内容の本とは大きく異なります。
 日本や中国に住む若者たちが、日本、そして日本人をどう見ているのか、著者は多くのひとびとにインタビューを行い、そこで聞きだした内容を、淡々と積み上げていきます。
 語るのはあくまで彼ら中国の若者たちであり、著者は最後まで自分の結論を押し付けることはありません。

 

 この本を読んであらためて感じたことは、中国は、日本とは異なり、ひとつの「カタマリ」ではないということ。

 日本でのマスコミの報道を見ていると、どうしても中国という国と、そこに住む中国人が一緒になって、ひとつのカタマリのように感じられてしまいます。しかし、本来、「中国」と「中国人」とはまったく異なるものだと思います。

 もともと多くの異なる文化の人たちをとりこんで形成された、いわばひとつの「世界」である中国は、ほぼ単一民族で構成されている日本とは、「国」という概念の定義自体が異なっています。
 今の中国は、ヨーロッパで言えば「EU」に相当するようなものではないでしょうか。


 さらに中国では、同じ地域に住む人たちをみても、日本にくらべ集団よりも個の力が強くなります。
 中国の人たちは、「砂」のようなものではないかと思います。それぞれの「個」の輪郭がはっきりしているために、型に入れて成型しようとしても、型を外せば、すぐにバラバラになってしまう。これは、同じ東アジアで見れば、おとなりの韓国の人たちも、中国の人たち以上に持っている傾向だと思います。

 それと比較すれば、日本人は「粘土」のようなものでしょうか。「個」の粒子ははっきりせず吹けば飛ぶようなものですが、「型」にはめて成型するとしっかりと一つに固まって、砂の粒子を圧倒する。
 よって、外からみたとき、不気味なひとつのカタマリとして見えるのは、むしろ日本、そして日本人なのだと思います。
 中国や韓国の人々から見ると、共通の文化・価値観をもち、個人の存在が見えず、全体の空気に従って行動する日本人は、ひとつの不気味なカタマリとしてその国と一体化して見えることでしょう。

 しかし多くの日本人は、中国の人々を見るときに、あたかも彼らも自分たちと同じように一つのカタマリであると、自分の日本人の尺度で勝手に誤解しているのではないでしょうか。


 この本は、中国の人たちが、輪郭のはっきりした個の集合体であるということを、あらためて教えてくれます。
 政府のスポークスマンが語る内容と、人びとが考えていることが同じわけであるはずなどない。
 そうした、実に当たり前でありながら、ふだん忘れてしまっていることをあらためて気づかせてくれるのです。




 中国に関しては扇情的な内容の本が多い中、この本の内容はビジネス的に考えるとインパクトに欠けるのかも知れません。
 しかし、どんな物事も、一方的に一刀両断にできるほど、シンプルではないはずです。
 安易に大衆受けする観念的なアプローチではなく、実際に人びとが語る多様な内容をシェアし、面ベースの交流を積み上げていく。
 時間はかかろうとも、こうした帰納的アプローチが、ほかの国を理解し、また自分の国をより理解する唯一の道だと思います。
 この本は、そのための一つのステップになることでしょう。



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