「日ソ戦車戦の実相 ノモンハンの真実」 古是三春著

 以前、このブログで、福井雄三著「『坂の上の雲』に隠された歴史の真実」という本を紹介しました。
http://d.hatena.ne.jp/santosh/20100111/1263211618

 その本の中で、「ノモンハン事件」について、今まで公になることがなかったソ連時代の内部資料が最近になって公開されてきており、そうした資料を見る限り、ノモンハン事件は世間で言われているような日本軍の一方的な負け戦ではなかったのだ、と言うことが書かれていました。 

 それ以来、ノモンハン事件が気になって、数年前に出版され話題になっていた、半藤一利著『ノモンハンの夏』の中古本を買ってきて読み始めていました。ノモンハン事件の解釈については、この本が今の日本では一番定番となっているように思われるからです。ですが、8割方読んだところで、なぜか家の中で本を紛失してしまい、そのままになっていました。
 先週末、大阪のジュンク堂で、この「ノモンハンの真実」という本を目にしました。著者は、もともと日本共産党職員で、プロパガンダに満ちたソ連時代の資料を読み解くことを専門にしていた、という経歴を見て、半藤一利氏とはまた違う視点があるかも知れないと思い、読んでみることにしてみたわけです。

 私が、もともと「ノモンハン事件」について持っていたイメージは、「近代的な戦車部隊をそろえたソ連軍に、旧式の日本軍が戦って、まるで相手ならなかった。日本軍は、ソ連の戦車相手に火炎瓶だけで捨て身で戦うしかなかった」というものです。

 しかし、この本を読んでみると、日本軍は決して一方的にやられ続けたわけではなかったようです。対戦車戦でも、歩兵の火炎瓶に頼って戦ったわけではなく、対戦車砲と戦車を中心に、大量のソ連戦車を確実に撃破していたようです。装甲が薄い95式軽戦車の不利をカバーするため、高い練度がなければ不可能な戦車での夜間攻撃を行い戦果を上げるなど、シンプルな戦術で愚直に押してくるソ連軍よりも、現場の戦術面では日本軍が優勢だったようです。戦争の被害としては、日本軍よりも、ソ連軍の方が甚大だったのです。
 しかし、結果としては、個別の戦闘レベルでは、兵士の錬度の高さや士気の高さ、戦術の発想面で善戦したものの、大きな作戦・戦略面で負けた、ということになるようです。参謀が立案する作戦面においては、冷徹な現実を踏まえた判断を行わず、一方的な思い込みと、現場の戦術レベルでの頑張りに過度に依拠する作戦を繰り返すことによって、日本軍はじわじわと押されていき、最後は圧倒的な兵力の差で完膚無きまで駆逐されてしまうのです。
 日本軍では、関東軍と陸軍本部との間で方向性がバラバラのまま、中途半端に腰が引けたまま戦争を続けていくのに対し、ソ連軍は、スターリン自らの明確な指示のもと、大量の武器や兵員を一気に投入して勝負に出たのでした。
 さらに、ソ連ノモンハンでの経験をもとに、戦車や戦闘機などの兵器や作戦を素早く改善し、それがその後、独ソ戦において役立ったのに対し、日本軍はこの戦争での苦い経験を冷静に分析し活用することなく、弱みをそのままにしたまま英米との戦争に突入していくのです。


 福井雄三氏は、ノモンハン事件を、「司馬史観」批判の事例として取り上げていたのですが、私は、むしろこの本を読んで、やはりノモンハン事件は「司馬史観」の典型的事例だと言う認識を強く持ちました。視野の狭い非合理的な精神主義に陥り、国を自滅させた「昭和」を否定し、素直な合理的な視点で、「坂の上」の目標へ向かって国を進歩させようてしてきた明治時代を肯定的に評価するのが「司馬史観」だと思います。その非合理的な存在の象徴が「日本陸軍」なわけですが、ノモンハン事件でも、それが端的に表れています。


 ここで感じるのは、私が日々直面しているビジネスの世界でも、これとまるで同じことが起きているということです。この本に書かれていることは、そのまま多くの日本企業の状況にあてはまるのではないでしょうか。

 多くの日本企業では、個別の戦闘レベルでの従業員のレベルは高い。技能や技術のレベル、仕事に対する意識も高く、業務を現場で自らカイゼンさせていくこともできます。ですが、こうしたハイレベルの戦闘員を全体最適の視点で活用して戦略目標を達成するための、戦略立案とその推進能力が弱いことが多い。基本的に、現場の強さに頼りきった経営になっており、現実を総合的かつ冷静に判断し、全社的に果敢なアクションをとっていく機能や能力、風土が欠けていることが多いようです。

 日本陸軍は、明治維新後、欧米に追い付くという明確な目標のもと、ゼロから短い期間で軍隊を作り上げ、日露戦争に勝利したものの、その後、成功体験におぼれ、冷徹に現実を見ることができなくなり、時代の変化についていけなくなっていきます。世界では、兵器や作戦面でのイノベーションが急速に進行しているにもかかわらず、反対に現場の戦闘員の強さに頼った精神主義を志向していくのです。さらに、軍隊における内部統制が効かなくなり、軍部の強硬派を天皇ですら押さえることができなくなり、無謀な戦争に突入し、結果自滅しました。
 多くの日本企業(大企業をイメージしています)も、戦後、ゼロから立ち上がり、欧米企業に追い付くという明確な目標のもと、ひたすらがむしゃらに走り続けることにより短い期間で急成長し、世界競争を勝ち抜いてきました。しかし、成功体験に拘泥し日本がNO.1だと驕っているうちに、時代の変化についていけなくなり、衰退の一途をたどっています。高度成長期には、基本的に欧米企業の後追いだけで、ユニークな戦略を考える必要性がなく、現場の戦術レベルに頼って成長してきたため、今になっても次の大きな戦略を打ち出す能力を有していないのです。


 このように同じような轍を繰り返していることを考えると、どうやらこれは日本における「組織」の特徴であり、本質的に日本という国の文化の奥底に根差しているのではないかという気がしてきます。こうした日本文化の特性を踏まえ、日本陸軍で起きていたことを反面教師・負の事例として企業活動にも活用することが、今までの戦争における多くの犠牲を無意味にしないために重要なのかも知れません。


 私は、欧米企業と比較して、日本企業おける現場の戦術面での強みは、まだ確かに存在していると思っています。よって、そこに戦略面での優位性がプラスされれば、欧米企業に対して十分勝機はあるわけです。
 むしろ優位性を持つのが困難なのは、対韓国企業です。彼らは、戦略面において積極果敢な決断で成功を続けているだけでなく、現場レベルでも社員のしゃにむな頑張り、組織へのロイヤリティーといった日本企業に近い強みを持っています。サムスンなどの韓国メーカーは、こうした戦略・戦術、両面の強みが噛み合うことによって、現時点では無敵な強さを誇っているのです。
 しかし、彼らの先に追うべきものがいなくなったとき、リバースエンジニアリングをやる対象もいなくなったとき、つまり白紙から戦略を描くべき状態になったときに、その成功の方程式が果たして同じように通用するのでしょうか。その行方に注目したいものです。