映画 「セデック・バレ(賽徳克・巴莱)」を観る


  
 「セデック・バレ」は、台湾の原住民である高砂族(最近はこういう呼び方しなくなりましたが)が日本の統治に反乱をおこした、歴史上の「霧社事件」をテーマにつくられた台湾のアクション映画です。

 先日、日経新聞でこの映画が紹介されていたのをみて、面白そうだなと思って調べてみると、関西では大阪九条の「シネ・ヌーヴォ」というところ1か所でしか上映していない、ということ。このGW休みの機会に、九条まで出向いて観てきました。
 
 第一部(144分)・第二部(132分)の二部構成で、合わせて276分、という恐ろしく長い映画で、今日は1日、この映画を観るだけでつぶれてしまった感じです。まあ、こんなこともGW休みにしかできない贅沢でしょう。


 さて、映画はと言いますと、前半の第一部は、反乱の勃発へ向けて話が盛り上がっていき、テンポも良く見ごたえのある感じなのですが、第二部になると、ひたすら同じような戦闘シーンばかりになり、かなり冗長な感じがします。もっと短くても良かったのでは?という気がします。
 舞台が台湾の山奥で、登場するのは台湾原住民と日本人ばかり、セリフもセデック語と日本語、というかなりマニアックな設定に加えて、この長さ。内容はアクションシーンも多く、エンターテインメント性を狙った映画のはずなのに、これでは海外市場で受けを狙うのは難しいのかな?とも思います。


 この映画で特に印象に残るのは、原住民役の俳優たちの迫力です。これに比較して、日本人俳優はみなふにゃふにゃとした感じに見えます(そういう役作りではあるのですが)。
 特に主人公 モーナ・ルダオ役の林慶台。彼は、もともと牧師さんで、映画は素人だったそうですが、そのインパクトは半端ではありません。三船敏郎という感じです。実にいい顔をしています。 もう少しだらっとさせると、松崎しげるにも似ているかも知れません。


 映画を観て感じたこととして2点書いておきます。

 一つ目は、この映画における「日本的なもの」の捉えられ方。
 映画の中では、日本の巡査や軍隊が悪者として、バッタバッタと殺されていくのですが、映画を観ているうちに、セデック族の主人公たちに感情移入していきますので、あまり違和感はありません。
 むしろ、日本人にとっては、主人公であるセデック族こそが、日本人の精神を体現している、と感じるはずです。
 この映画のテーマ自体が、台湾の原住民たちは、かつて日本のサムライに負けない大和魂を持った勇敢な人たちだった、ということにあるので、セデック族のサムライが、敵方である本家サムライの日本人と戦う、という複雑な関係になってしまっています。
 負けるとわかれば投降せずに腹切りしたり、女子供は戦争の邪魔になるからと集団自決したり、ということは、その後、日本人が太平洋戦争で行ったことそのままです。
 太平洋戦争における日本軍の行動は、他の国からは、キチガイじみた行動であるとか、狂信的であるとかのとらえ方をされがちですが、この映画では外国映画にしては珍しく、そうした行動が肯定的に表現されています。 

 外国人がサムライ魂を美化した映画としては、最近では「ラストサムライ」がありますが、このセデックバレの方が、日本人の精神をよく理解して表現しているように思えます。これはやはり台湾人の監督によるものだからでしょうか。


 二つ目は、台湾原住民の反乱事件の話を、アジア各国合作の娯楽映画として描けるようにまで社会が成熟してきた、ということ。
 最近アジアの各国では、今までは生生すぎて、映画のテーマには成りえなかった歴史上の事件が娯楽映画にされてきています。
 肉親相戦ったあまりに悲惨な記憶である朝鮮戦争をとうとう娯楽映画化してしまった韓国の「ブラザーフッド」、中国における国共内戦プライベートライアンのように戦争娯楽映画化してしまった「戦場のレクイエム」など。

 この件は、以前書いたことがあります ↓ 
中国映画 「戦場のレクイエム」を観た - Santoshの日記


 台湾においても80年代末に「2.28事件」を描いた「非情城市」がつくられ、政治的な見解がつきまとう過去の事件が映画化されるようになってきたわけですが、原住民の反乱というけっこうタッチーそうなテーマでも娯楽映画がつくられていることをみると、台湾社会における原住民部族の扱い、というのは、かなり安定した状況にあるのでしょうか。
 
 さて、翻って日本を考えると、アイヌによる「シャクシャインの戦い」をテーマにした戦争映画が作られるような時代が果たしてくるのでしょうか? 日本社会はそこまで多様性に寛容になっているのでしょうか?