「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」 加藤陽子著 を読む

 お盆ですので、やはり戦争関係です。

 ずいぶん前から、読もうと思っていた本です。

 新品を買うのももったいなかったので、アマゾンの中古本が安くなるのを待っていたのですが、なかなか中古価格が下がってこないので、とうとう待ち切れず新品を買ってしまいました。


 左寄りのオバチャンの書いた本なのかな、と思って読んでみると、いやいや非常にバランスのとれた本です。

 主義主張を明確にするよりも、この本で提示されているのは、さまざまな事実です。

 その「事実」たるや、今まで聞いたことのない事実であったり、意識したことのない切り口の連続で、非常にタメになる本だと思います。

 日清戦争日露戦争第一次大戦満州事変・日中戦争、太平洋戦争と、日本がひたすら戦争へとはまっていく時代に、為政者、そして人々は当時の出来事をどうとらえ、何を考えていたのか。

 それぞれの時代には、その時代の全体像があり、現代に生きるわれわれが、限られた情報からその全体像(あるいは「空気」)を想像するのは困難です。われわれは往々にして、現代の視点から、当時の人々が考えていたことを一方的に推測してしまっています。

 この本では、現代人が当たり前だと思いこんでしまっている一般的な考え方に対して、事実をもとに、思わぬ新たな視点を提示してくれています。
 全く関係ないと思っていたふたつの歴史の出来事が、実は因果関係でつながっていた、といった目から鱗の事例もいくつも紹介されています。


 ただ、本の前半は、面白い視点がどんどん登場するのに対して、クライマックスであるべき太平洋戦争に近づくと、話が突然つまらなくなくなってくるように感じます。 
 もともと高校生への講義をもとにした本ですので、全体に突っ込みが少ないのも、欲求不満になる点です。(高校生相手にしてはちょっと難しすぎるではないかとも思うのですが)




  戦前の日本と言うのは、よく軍部独裁、暗黒の時代、というようなイメージで語られることが多いのですが、私は、そんなことはなかったのだろうと考えています。まがりなりにも民主主義の制度をもっていた日本においては、圧倒的な国民が支持しない限り、軍部と言えども絶対的な力を維持することはできなかったでしょう。
 少なくとも、戦前の日本は、北朝鮮のような独裁国家ではありませんでした。
 日中戦争も、太平洋戦争も、大多数の日本国民がそれを求めていたからこそ起きたのだと思います。日本の戦争責任とは、結局、民主主義制度のもとで、戦争を支持していた圧倒的多数の普通の人々にあるのだろうと思います。


 左寄りの人たちの視点は、世界を、国をまたいで水平にぶった切って、支配する側と、支配される人民・大衆の二つのグループに分けて見がちです。この視点でいうと、戦争責任は、戦争を主導した軍部や政権や資本家にあり、一般大衆はその被害者となります。
 この考え方は、まだ右傾化する前の社会主義時代の中国にもあり、日本の人民は同じ被害者だ、と言っていました(今でも公式的にはそうです)。


 一方で右寄りの人たちの視点は、世界を国別にタテに切って、ウチとソトに分けて考えがちです。この視点では、戦争の責任は常にヨソの国あります。日中戦争もその責任は中国にあるという考えです。今でも田母神さんなんかはこういう考えです。
 ちなみに、最近の中国は、もう「インターナショナル」よりは「ナショナリズム」志向ですので、すっかりこっちの考えになってきました。


 もう戦後、60年以上もたつのに、日本で戦争の話が出ると、依然として、上のどちらかの話になってしまうことが多いようです。
 私はそれは「逃げ」でしかないと思います。左も右も、自分の責任を人のせいにして逃避しているだけです。
 しかし、大多数の日本人には自分が戦争をおこした意識はない。かといって、ヒトラーのような独裁者がいたわけでもない。その場の雰囲気に流されて、決定者も決定プロセスも曖昧なまま、何となく戦争まで行きついてしまった、ということだったのではないでしょうか。ここに、日本社会特有の、文化に根差した難しさがあるのです。結局、戦争責任について突き詰めるということは、日本の文化と日本人の思考回路・行動パターンについて、解析していくことにほかならないと思うのです。



 戦後日本の大きな課題の一つは、戦争の総括をしてこなかったことです。
 どうして負け戦の戦争をしてしまったのか? その責任はどこにあったのか?
 これに蓋をしてきたがために、国の根幹がふにゃふにゃした状態になってしまっています。


 最近の日本の状況も、戦前の状況も似たりよったりだった、という話をよく聞きます。
 このままでは、誰も意識しないうちに、日本は、また同じことを繰り返してしまうことになるのかも知れません。