「日中韓 歴史大論争」 櫻井よしこ、田久保忠衛、ほか。

 櫻井よしこ氏、田久保忠衛氏という右寄り?の方々が、中国・韓国の知識人・言論人と真っ向から論争をする、という面白そうな企画にひかれ、読んでみました。


 残念ながら、中国の知識人との論争においては、櫻井氏・田久保氏は、相手の言うことに耳を傾けず、ひたすら自分たちの主張を繰り返すだけ、一方、中国側の人たちは、ひたすら公式発言を繰り返すだけ、というまったく噛み合わない内容で、論争と言えるようなものにはなってませんでした。

 中国においては、基本的に言論の自由が制限されている以上、公式発言以外はできないわけですから、始めから議論になどなるわけがないのでした。そうした決まり切った見解に終始する中国側に対して、日本側は、さまざまな角度からひたすら攻撃を仕掛ける、という構図が続きます。


 「中国側代表」として参加した、劉江永氏や歩平氏は、中国では「知日派」として活動している人たちであり、むしろ「親日派」として批判されかねないリスクのある立場にいる人たちだと思われます。よって、発言には、日本の立場も考慮しながら、穏やかにまとめよう、という姿勢が見られます。

 しかし、日本側メンバーは、そうしたあいまいな態度を許さず、歯に衣をつけず激しい中国批判をしていきます。それによって、両者の見解の違いが非常に明快に整理された、という点では、意味がある対談だと言えるかも知れません。


 中国側の発言に対しては、いかんせん「公式発言」の範囲を出ませんので、あえてここでコメントする意味もありませんが、櫻井氏、田久保氏は自由に発言しているわけですので、私が思うところを書いておきたいと思います。


1.靖国問題東京裁判に対する考え方
 靖国問題は内政問題であり、日本人の「心」の問題である、という姿勢を通すには、それを内政問題に済ませられるような、外国人にとって理解できる説明を行うことが不可欠だと思います。日本人の神社や信仰に対する考え方が、他の国とは異なる独自のものだから、おたくの国の考え方で勝手に判断してもらっては困る、というストーリーでいくのならば、どこがどう違うのか、それを外の人が理解できる形でもって説明することを、避けては通れないでしょう。少なくとも、一度戦争に負けてしまった弱い立場にある国にとってはです。

 これは立場をひっくり返して考えれば、中国人が「中国の人権問題は、中国の独自の文化に根ざした価値観に基づいてやっているのだから、外国の人から非難される筋合いはない」、と言っているのと同じことなのです。

 また、東京裁判を否定する態度も、外国にとっては、まったく理解不能なはずです。日本は敗戦後、東京裁判の判決を認め、サンフランシスコ講和条約に署名し、国際復帰した、というのが日本国としての基本スタンスです。それなのに、いまさら「サンフランシスコ講和条約では、その判決は認めたが裁判は受け入れていない」とか、「東京裁判罪刑法定主義に反しているからその判決は茶番でしかない」とか、後から吠えられても、日本の「国」としてはそういう見解をとって来ていないわけですから、聞いている方としては???と思わざるを得ないでしょう。

 この件は以前にも書いています。↓
http://d.hatena.ne.jp/santosh/20100815/1281877472

 私も、東京裁判はまったくの茶番だと考えていますし、靖国神社の位置づけもそう単純なものではないことは分かっています。 
 この問題について取り組むべきことは、そうした日本側の考えを、外の人にとって理解できる形で、明確に論理的に整理して、そしてそれを一貫して対外的に説明し続けることだと思います。


 果たして、櫻井氏や田久保氏は、これにキチンと取り組んでいるのでしょうか? 私には残念ながらそのようには思えません。昨今の中国論は、日本の価値観で、中国を一方的に論じる、内向きな自慰的なものばかりに見えます。

 相手にこちらの主張を理解させるためには、面倒であっても、相手の思考回路・ロジックを理解し、相手の頭の中の文脈の中で物事を説明していく必要があります。「コンシューマーインサイト」など、ビジネスの世界では常識とされているこうしたことが、なぜ言論の世界では常識とされていないのでしょうか?


 私が、昨今一世を風靡している「愛国者」を自称する右寄りの言論人が「エセ愛国者」だと思う大きな原因がここにあります。 日本という国のことを真剣に考えるならば、日本と言う居心地のよい閉じた社会の中で、日本人同士で、日本語で、仲間同士で自慰的に盛り上がったり、他国の「親日派」を相手にウサを晴らしていても仕方がありません。日本と言う国をよくするため、自らが国を代表する覚悟があるのなら、一度、外に出て、相手の土俵で、アウエーで勝負してみればいい。そうすれば、独りよがりのやり方では通用しないことが実感できることでしょう。


2.チベットの人権弾圧について

 櫻井氏は、中国は、チベット人民を弾圧していると厳しく追求しています。それに対し、中国側は、中国はチベットの民族文化を尊重し、多くの投資も行い生活を豊かにしてきた、と反論しています。この議論を読んで、これはまさに日本の朝鮮統治政策に対する日本と韓国の議論そのままではないかと感じました。

 日本側は、朝鮮を植民地化したことによって、多くのインフラ投資を行い、教育制度をつくり、人々の生活・文化水準を向上させた、朝鮮半島については、リターンよりもインベストメント(持ち出し)の方が大きかったことから、その功績を正当に評価すべき、と主張します。

 それに対して韓国側は、それらは韓国側が望んだのではなく、すべて日本が自国の国益のためにやったことである、よって持ち出しの方が多かったとしても、それは結果論でしかない、と主張します。

 結局、どの視点から見るかによって、評価はまったく変わってしまうものなわけです。

 チベットにおいても、中国は多くの投資を行い、さらにチベット人に対しても少数民族として高等教育の受験枠や一人っ子政策の緩和など、様々なアファーマティブアクションを与えています。漢族からすれば、自分たちも大変なのに、なぜ少数民族ばかり優遇されるのか、という意識を持っているはずです。
 しかし、チベット族からすれば、それらは自分たちが求めていないものである可能性が高いのです。たとえ生活が貧しく、教育が受けられなくとも、中国に隷属するのではなく、独立国であることを望む人は多いでしょう。

 櫻井氏は、こうした多面性を理解して語っているのでしょうか?

 ひるがえって櫻井氏は、日本のかつての朝鮮植民地化政策についても、中国のチベット政策と同様に厳しく批判しているのでしょうか?
 言うまでもなく、当然そうなのでしょうが。


 櫻井氏の中国のチベット政策についての描写は、「南京虐殺」について狂信的に語るアイリス・チャンを彷彿させてしまいます。
 「人の振り見て我がふり直せ」という言葉を忘れないようにしたいと思います。