なぜ欧州人とは話が噛み合わないのか?

 再び独断的文化論です。
 私の周囲を見ますと(私の経験はビジネスに限られますが)、欧州人と議論をすると、話が噛み合わない、ということが多々あります。というより、噛み合うことの方が珍しい、と言った方がよいでしょう。いつも、相手がどのような反応をしてくるのか、まるで読めない、というのが実情です。

 何故こんなに噛み合わないのか、その原因をずっと考えていたのですが、初めに思ったのは、「ロジックのパターン」が違うのではないか、ということでした。物事の結論にいたるアプローチが、日本と欧州では異なるから、互いに理解できないのではないか、ということです。

 これはこれで事実だと思うのですが、最近感じているのは、ロジックの違いよりも、むしろ物事を考える上での前提になっている基本的な常識・知識・情報などが共有されていないからではないか、ということです。これは、「ロジック」に対して、「コンテクスト(文脈)」と呼べるのではないかと思います(正しい表現かどうかはわかりませんが)。

 議論のスタート地点において、別な現状認識をベースにしていれば、いくらロジックが理解できても、どうしても話は噛み合わないでしょう。それならば、まず話に入る前に現状認識を合わせておけばよいのではないか、という話になるのでしょうが、実際には、現状認識といっても実に幅広い内容があり、文化や歴史にまで及んでくることですので、そのすべてをカバーすることは無理です。結局、忍耐強くコミュニケーションを続けて、共通の認識・経験をつくりながら、互いの認識の違いも把握していく、ということになるのでしょう。


 私の例で言うと、以前、NYで英語の語学学校に短期間通ったことがあるのですが、そこで感じたのは、クラスメートの欧州の学生達は、英語という言語との間に、共通の文化背景を共有しているので、英語の理解が早い、ということでした。特に、歴史や宗教に根ざしている事柄については、こちらはまるでその概念がちんぷんかんぷんなのに、彼らは、一言聞けば、すぐその内容が想像できるようです。語学以外に、基本的な常識を共有しているかどうかが、大きく影響するわけです。
 一方、中国語を学習するときにはそれと反対の事が起こります。日本人にとっては、漢字というツールとそれに付随する歴史的・文化的コンテクストを共有しているために、書き言葉で使う難しい単語であっても、漢字の字面を見ればその概念が瞬時に理解できてしまいます。もちろん、中国語と日本語の間には、同じつづりで意味の異なる言葉もありますが、それらは少数派で、むしろ抽象的で概念的な言葉ほど、意味は共有されていると考えてよいでしょう。しかし、西洋人にとっては、ひとつひとつの言葉の持つ微妙な概念の差を一つ一つ学習していかねばならないわけです。

 別な例になりますが、日本語に翻訳された文学や小説の読みやすさ、にもこの課題が影響していると思います。私は、欧米の翻訳モノの小説というのが、非常に苦手です。日本語にはされているはずなのに、何を言っているのかまるでピンと来ない。何か砂を噛んでいるような気がします。あまりに苦痛で読み切れないので、最近は欧米の翻訳モノは敬遠するようになりました。せいぜい読めるのは、ジェフリー・アーチャーなどの活劇モノくらいです。ビジネス本も、欧米の翻訳モノはほとんどピンと来ません。
 この背景にあるのは、やはり基本になっている知識が共有されていないからなのでしょう。文章の字面を読んでも、その描写がどういう背景を暗示しているのか、そこがわからないから、深く理解できないわけです。それにくらべ日本の小説はしっかり理解できるので、スルメのように味わって読むことができます。ちなみに、最近の村上春樹の小説は、日本語なのに、まるでピンと来ないのですが、だからこそ海外で評価されているのかも知れません。(「風の歌を聴け」などの3部作のころはわかりやすかったと思うのですが。。)

 それでは、欧米以外の翻訳モノはどうかというと、韓国の小説にはあまり違和感を感じることはありません。中国の小説はどうかというと、こちらはあまり多く読んでいないのでよくわからないのですが、欧米モノほど、砂を噛んでいるような感覚は無いように感じます。ここにも、大きく見ると、歴史的に東アジアの共通文化圏として基盤となるコンテクストが共有されている、ということが大きく影響していると思います。
 その中でも韓国との間には、歴史的に35年間の日本統治下時代があったこともあり、共通のベースが多いと感じます。
 中国との間では、長い歴史的な視点からみると、共通のベースがありますが、近年になって、共産革命後、特に60〜70年代の文革時代には西側諸国とは鎖国に近い状態が続いていたこともあって、西側の国の人たちにとって常識と思われることが共有されていない、という状況があります。もちろん、既に30年間にもおよぶ改革開放時代を経て、若い人達の感覚は、西側の人達のそれにかなり接近してきてはいるのでしょうが。

 以上、まず「コンテクスト」について書いてきましたが、「ロジック」の違い、も確実に存在していると思います。ロジックにおいてポイントになるのは、「帰納法的アプローチ」と「演繹法的アプローチ」の違いだと感じています。
 ですが、あまりに長くなりましたので、ロジックのテーマについては次回にさせて頂くことにします。

 最後に、「コンテクスト」と「ロジック」の違いによる、日本、中国、韓国、そして欧州の違いを、独断的に模式化してみます。(欧州を一括りにするのはさすがに乱暴なので、ドイツで代表させます)
 横軸に「コンテクスト」の違い、縦軸に「ロジック」の違いをとると、4つの象限ができます。

 日本を「1」の象限とすると、ドイツはその対極にある「4」の象限に入ります。つまり、コンテクストも異なり、ロジックも異なる、ということです。
 韓国は日本と同じ「1」の象限のグループです。
 中国はと言うと、コンテクストは共有されているが、ロジックはかなり異なる(欧州ほどではないが)ということで、「3」の象限に入れています。

 さて、かなり牽強付会ではありますが、如何でしょうか?