「これが日本人だ」 王志強著 小林さゆり訳 を読む

 サブタイトルには、「中国人によって、中国人のために書かれた日本および日本人の解説書」とあります。

 「芸者とおじさん」のちょっとふざけた表紙を見て、中国人からみた日本人の枝葉のエピソードを、いろいろ面白おかしくとりあげて書いているエンターテイメント性の高い本なのかと思ったのですが、読んでみると、意外にもきわめて真面目な日本人論の本でした。

 著者は、日本に留学して以来、長年日本とつきあいを続けきた中国人の人だそうです。
 経歴を見る限り、基本的にビジネスマンで、学者ではないのにもかかわらず、ルースベネディクトや中根千枝など過去の著名な日本人論も踏まえながら、日本の歴史や経済・社会についての幅広い内容を引用し、バランスのとれたストーリーを語っていきます。

 もちろん日本人から見ると違和感のある部分もあるのですが、「うまく分析しているな」「そのとおり」、と膝を打つような内容が多くありました。



 著者は最後の結論で以下のポイントを述べています。


○日本は歴史上、数度の改革を行ってきたが、それらは自力で行ったのではなく、外部の刺激や圧力に突き動かされたものだった。
  1)縄文時代の狩猟生活から弥生時代の農耕生活への転換 〜 渡来人による
  2)大化の改新による律令社会化 〜 中国の統治システムの律令制度の影響
  3)明治維新による立憲君主制の資本主義社会化 〜 欧米列強の脅威と、その先進的文明の受容による
  4)第二次大戦後の「自由民主」の社会改革 〜 戦勝国アメリカによる外科手術

 これら外部要因による変革により、一気に短期間での勃興が成功した。


○日本は、独特な混合文化を維持してきたが、普遍的な先進文明を生み出すことはなかった。


○日本は歴史上何度も勃興期を経てきたが、経済や軍事面以外に「文明」という面において勃興したことはなかった。

 このことが、日本人の劣等感と自尊心、自虐と向上心の切っても切れないねじまがったもつれを生むことになった。 

 
 海外に滞在したり、暮したことある日本人ならば、自分たちが、いかに人の目を気にして、劣等感を感じて委縮してみたり、あるいは反対に優越感にひたって偉ぶってみたり、の間を揺れ動いていることが多いのに気付くことでしょう。
 それは、欧米人やインド人は言うまでもなく、同じ東アジアの中国や韓国の人たちとくらべてもずいぶんと異なる、日本人独自の感覚のように思えます。

 ヨーロッパでも、中国や韓国の人たちは、他人にどう見られているかなどまるで気にしない様子で、自分たちの好きなように大声で話しながら、伸び伸びとふるまっているように見えます。一方で、日本人の集団は、常に人の目を気にしてふるまっている感じです。


 私自身が典型でしょうが、一般に日本人は、常にまわりとの関係において自分のポジションを定めないと、落ち着くことができません。
 上下関係がはっきりわからない状態というのは、非常に不安です。
 会社でいえば、本来関係がフラットな「同期」というのが、実は一番微妙でセンシティブな関係だったりします。
 上司・部下、お客とお店、などの明確な関係がない間柄の場合、とりあえず互いの年齢や経歴などを婉曲的に聞いたりして、そこに何かしらの相対的な上下関係を組み立てて、自分のポジショニングを明確にした後に、やっとほっとしてコミュニケーションをとり始めるものです。
 「絶対的」な存在や関係よりも、「相対的」な関係が重要なのです。
 日本語の敬語が、相手によって、尊敬したり、謙譲したり、と相対的に表現を変化させるのに対して(例えば、1対1の関係では敬語の対象である自分の上司も、外の人に対しては、謙譲語で表現する)、韓国語の敬語は、立場がかわろうと、基本的に同じ人については同じ尊敬の表現を使うのとは対照的です。


 私はいつも、ここにも「文明」の有無、が影響しているな、と感じていました。
 中国という社会は、日本のように民族を中心とした固有の「文化」でまとまっている国ではなく、進んだ「文明」を核として、文明の遅れた地域がそこにとりこまれていくという、「文明」中心でまとまっている国です。
 これは「中華主義」や「中華思想」という言葉でも呼ばれているものです。
 そこには、先進文明という絶対的なコアと、それを中心にした絶対的な価値基準が存在しているために、自分たちの価値観に迷いがありません(もちろん中国も共産革命以来、数度に亘る価値観の逆転と崩壊を経て、迷い多くなってはいるのですが)。



 西欧も、中国と同様、先進文明や思想、技術などを核に、社会をまとめてきました。
 アメリカは、「自由や民主主義、資本主義」という「先進文明」にを核にして、その理念に賛同する人たちをとりまとめた人工国家です。
 こうした国・地域も、中国同様、自分たちの絶対的な価値基準に迷いがありません。

 このテーマは今まで何度かこのブログに書いてきました。  http://d.hatena.ne.jp/santosh/20110403/1301843593



 一方で日本は、全体をリードする「先進文明」という核がなく、同質なものが相対的にバランスをとりながらまとまっているという、まったく違うコンセプトで成り立っている社会です。
 互いがバランスをとり、集団を維持させようとするので、集団内では安定したカタマリを維持することができますが、 同質社会の「外」の世界に対しては、常に関係は不安定になります。他の国との関係においても、相対的に上か下のどちらかの状態にならないと安定しないため、偉ぶって上にたとうとしてみたり、自虐的に下に甘んじたり、を揺れ動いてしまうことが多いのです。 明治維新までは、中国が上・日本が下、という関係は、長年自明の事実として安定していましたし、戦後のアメリカとの関係も、絶対的にアメリカが上・日本が下、ということで、迷いなく安定していました。戦前は、日本が世界の中で上位なポジションをとろうとアグレッシブにチャレンジし、世界が不安定となった時期です(戦前のこの時期は、日本が独自の文化を文明にまで昇華し、それを対外に広げようと模索していた時期のようにも思えますが)。
 時代によって、周りの国との関係は相対的に揺れ動いてきているのです。



 このような国は、世界でもきわめて特殊なのでしょう。他の国から見れば、一貫した姿勢や基準がなく、常に相手に合わせ、態度を変えている、右往左往している、という印象を持たれてしまいます。著者が語っているように、日本は経済や軍事面以外に、「進んだ文明」によって、ほかの国に影響を与えた歴史がなく、そのことが日本・日本人というものをわかりにくくさせているのです。



 しかし、我々はこうした日本人の特性を変えることなどできません。
 文明は進化していきますが、文化は性格のようなもので、身についてしまった属性です。文化は、メリットとデメリットが表裏一体にからみあっている以上、その一部分を変えることもできません。そうしようとすれば、強みや良い点までが、一緒に損なわれていくことになります。
 それ故に、こうした文化を持つ「日本人」というものの概念を、的確に外の人にわかるロジックでコミュニケーションすることが重要になります。


 著者はこうした日本人の特質を、きわめて明確に分析して論じています。
 日本人が中国人を把握する以上に、中国人が日本人の特性を把握することは難易度が高いと思います。
 ここまで日本人論を掘り進め、それを中国の読者に語ってくれている著者に敬意を表しましょう。