「世界クジラ戦争」 小松正之著 〜 欧米人は論理的というより観念的ではないか

 シーシェパード」による妨害の件などで、捕鯨を巡る軋轢はたびたびニュースになっています。昔からクジラ肉を食べてきた日本の文化を認めようとしないアングロサクソン国家の一方的な態度に、憤りを感じている日本人は多いと思います。

 著者は、水産庁で長い間、捕鯨問題の交渉の実務にかかわってきた人だそうです。この本には、捕鯨交渉の交渉の焦点や経緯が、著者の熱い思いとともに書かれていて、面白く読むことができます。
 ただし、著者のスタンスであれば、対外交渉においては強力な推進力を発揮した一方、役所の中ではかなりの変わり者として、関係部署と軋轢を生んでいたであろうことも容易に想像できます。


 捕鯨交渉における焦点は、反捕鯨国が、まず「クジラは知能が高いから殺すべきでない」という感情的なスタンスからスタートし、その主張を正当化するため「クジラの数は少なく保護しなければいけない」という科学的に裏付けられているとは言い難い理屈を主張しているのに対して、日本は「クジラを含む生物資源の管理は、科学的な事実・根拠によって判断すべきである」という姿勢を一貫してとり続けてきたところにありました。
 アングロサクソン国家主体の反捕鯨国による感情的で高圧的な姿勢に対して、日本が原則論をぶらさず、科学的な根拠を一つ一つ積み上げて反論していく、ということは、非常に手間と根気のいることだったはずです。しかも、「国際捕鯨委員会」のような国際会議は、外国語を使って欧米の議論の進め方のもとで行われる、日本人にとってはまったくの「アウェー」の世界です。考えただけで片頭痛になりそうです。


 一般に「欧米人は論理的である」、ということが言われていますが、私は、この捕鯨問題の例でもわかるように、むしろ欧米人は「観念的」であることが多いと思っています。少なくとも、日本人の目から見ると、欧米人の考え方には、話し方は論理的なようでも、その内容は論理的とは言えない点が多いのです。
 この件は、以前にもこのブログで書いたことがあります。 
 http://d.hatena.ne.jp/santosh/20091025/1256479308 

 日本人の思考回路は、一つ一つの事実を積み重ねて、最後に結論を出していく、という「帰納法」的なアプローチが一般的だと思います。それに対して欧米人の場合、いきなり「あるべき論」が登場し、そこから各論に落とし込まれていくというアプローチが多用されます。
 クジラの問題でも、反捕鯨国の主張には、まず「クジラは殺していはいけない」という大前提が存在し、その前提に対する反論は、議題として扱おうとしないそうです。
 これは、少し強引な考えかも知れませんが、欧米社会における、キリスト教の位置づけにも共通しているのかも知れません。私は、神の存在というのは、観念的なものだと思います。神が存在するのかを、事実を積み上げていく帰納法的アプローチで突き詰めていっても、納得できる論理が成立するとは思えません。(神学においては、そういった論理も確立しているのかも知れませんが)
 ルネッサンス以降の科学技術の進歩とその一般化によって、欧米における宗教の重要度は、中世時代よりは低下していますが、依然日本にくらべれば宗教の存在は大きいと思います。欧米人にとっては、キリスト教における神の存在のように、観念的な常識というものがあり、それは迷うことのない絶対的なものと信じられているようです。少なくとも、議論のマナイタにのせて、東洋人とその是非を論議するようなものではありません。それを共有しない人たちは、単に異文化の野蛮人とみなされるはずです。
 日本人のように、明治維新や敗戦によって過去の常識が否定され、自分たちのもつ観念的な常識をいったん白紙にして、すべてを科学的なアプローチで論理的に再構築するステップを踏まざるを得なかった人たちとは、基本のスタンスが異なるのです。

 昨今のシーシェパードの行動を見ていても、残念ながら彼らとの間で論理的な話しが通じるようには思えません。日本人は論理的な議論をしたいと構えていても、彼らにはそれ以前に異なる大前提があり、それ自体は論理的な議論の対象外であるためです。

 欧米人が、固定観念起点の発想を脱し、真に論理的になるためには、日本や他の旧植民地国のように、一度、異なる文化の人たちの傘下に入り、自らの価値観や観念を相対的に見る経験をつむことが不可欠なのではないでしょうか。