「街場の中国論」内田樹著 を読む

 今日は昨日に続いて中国ネタです。新刊書コーナーでハイライトされていたので、買ってきた本です。著者の内田樹氏はずいぶん有名な方のようですが、今まで私の限られた視界には入っていませんでした。著者の略歴を読んで、やっと以前に読んだ「日本辺境論」という本の著者だということに気づいたのでした。

 内田氏は、中国の専門家ではなく、中国で生活した経験もないにもかかわらず、一般的な情報をもとに、客観的に中国を解析していきます。中国で生活したことのある人ならそうは思わないよな、という違和感のある現状認識も一部あることはあるのですが、それらは枝葉の部分です。表面的な現象だけでなく、そのおおもととなっている考え方が何なのかについて、的確に切り込み、そのユニークな視点をベースにして、さらに縦横無尽に話を広げていきます。

 著者も語っているように、昨今の日本のマスコミでは、中国の反日的な動きへの反動として、低レベルの嫌中論があふれています。
 著者は、その多くは、
 「人間、世界どこでもみな同じ」という大前提から、
 「しかるに、中国人は日本人とは違うことをする」という小前提に移って、
 「だから中国人は間違っている」という結論を導いて終わり、

という破綻した3段論法に基づいていると指摘しています。
 人間、世界どこでも考えることはみな同じ、という大前提自体が間違っているわけですから、この議論には本来、意味がありません。こうした中国論は、日本という閉じた社会では受け入れられても、一歩、日本からアウェーの世界に出た途端、まるで見向きもされな自己満足的なものです。

 本来、中国を語るのに必要なのは、
1)まず、日本とは異なる中国という国の事情を踏まえた上で、
2)自分が、今の中国の指導者の立場になったときに、果たしてどう中国を経営するのか?
という当事者としての視点です。外から人を非難することなど誰にでも出来ます。自分ならよりよく解決できるという処方箋なしの批判は無責任でしかありません。
 しかし、昨今の日本における、ほとんどの中国論は、上記の1)の視点すら顧みることがないのです。



 著者が指摘している内容の中で、「中華思想」について書いておきたいと思います。
 「中華思想」については、私もたびたび断片的に書いてきたのですが(http://d.hatena.ne.jp/santosh/20100316/1268781679)、中華思想とは、本来、日本や韓国に見られるようなひとつの国レベルで完結する「ナショナリズム」とは、次元の異なるものだと思います。
 著者は、「中華思想とは、天下すべてが中国を中心にひとつの調和した小宇宙を形成しているという宇宙観」である、と定義しています。よって、そこに本来、国境線という概念は存在しません。最近は尖閣諸島問題などで、中国と周辺国との国境線がクローズアップされるようになりましたが、これは中華思想とはまったく異なる、むしろ西洋的・現代的なな考え方に基づくものです。

 私は、日本や韓国におけるナショナリズムが「民族」つまり「文化」をベースにしているのに対して、中国における「中華思想」は「文明」をベースにしていると考えています。中国の中の文明的に進んだ地域(かつては中原だったのでしょうか)を中心として、周辺地域を巻き込んだひとつのゆるい世界がつくられ、そこでひとつの世界が完結しています。

 ナショナリズムというものが、常に他の国との対抗上で生まれ、自分と他社の違いを明確にしたうえで、自己の存在を確立しようという、常に相手があっての「相対的」なものなのに対して、中華思想は、よその国・世界のことなど関係なく、自分達で完結している「絶対的」なものです。そこには、民族や人種という障害は存在していません。何者をもとりこんでいく懐の深いものです。現在の中国という国は、中華思想に基づいたこうしたひとつのゆるい宇宙=世界が、そのまま西洋的概念での「国」という形に変化してきたものです。
 私自身、中国で生活していて強く感じたのは、中国は、日本や韓国で言うようなふつうの「国」ではない、ということです。ひとつの世界なのです。その中には、普通ならいくつもの国に分かれているはずの、いくつもの異なる民族や人種を包含しています。欧州で言うと、「EU」というくくりぐらいに相当するのだろうな、と感じていました。

 それでは、文化もバラバラな集団を一つの世界にまとめいく求心力は何なのかというと、それは歴史的には、進んだ「文明」だったのです。文明が進んでいる地域を中心に世界がまとまっていくのは自然な姿であり、そこで中心になって活動するプレーヤーが入れ替わろうとも、文明の格差が存在している以上、その枠組みは維持され続けます。反対に、「中華」における文明の優位性が喪失すると、この枠組みは崩壊してしまうことになります。
 歴史的に見ると、黄河文明から始まり、唐、元、明、清と、中華の文明的な優位性はずっと継続していました。これがアヘン戦争以後、西洋国家に文明的な優位性を奪われた途端、中国は求心力を失い分裂状態になります。太平天国から、辛亥革命軍閥国共内戦、と、中国は求心力を失い、分裂した時代が続きます。
 その後、共産党によって、中国は再び統一されますが、そこにあったのも、「共産主義」というひとつの文明です。大衆にとっては共産主義の思想など理解できなかったでしょうが、土地が地主から解放され、ひとびとの生活が昔にくらべ改善することによって、ひとびとは「文明」の直接的な恩恵に浴することができていたのです。
 その後、文革の混乱を経て、79年以降に登場するのは、「金儲け主義」という新たな文明です。文明というより、俗世的な恩恵と言ったほうがよいかも知れませんが、中華の恩恵に従っていれば、みな物質的に豊かになる、という現実を目にして、中国は再び、強力な求心力を持つようになります。
 79年以降、訒小平氏が提唱した、一部の人が先に豊かになり、それにより社会全体のレベルを引き上げていく、という考え方は「先富論」と呼ばれています。著者は、この考え方自体が、「中華」を中心に周辺が引き上げられていくという、中華思想に合致した考え方だ、と述べていますが、これも面白い視点です。確かに、こうした不公平を認める考え方は、日本では受け入れられにくいでしょう。


 さて、このように、中国という国が、文化ではなく、文明の求心力をベースに成り立たっているとするならば、今後はどうなっていくのでしょうか?
 中東のジャスミン革命の状況を見て、中国でも同様のことが起きるのではないか、という人も多いですが、私はそうは思いません。過去30年は、「金儲け主義」が成功し、人々を実際にどんどん豊かにすることによって、中国は強い求心力を持つことができました。今時点でも、多くの中国の人たちは、かつての貧しい時代をおぼえています。文革時代の、モノがなく、食べるものも足りず、何一つ自由もなかった時代とくらべれば、現在の中国がどれだけ良いか、言うまでもないはずです。しかも、まだ毎年人々の暮らしはよくなっていっています。みなが自家用車を持てるような時代が来るまで、まだ中国の人の暮らしには改善の余地が残っているのです。よって、圧倒的多数の人たちは、多少不満があろうとも、国が不安定になることより、今の調子で生活が豊かになることを望んでいると思います。

 課題は、中国がある程度豊かになってから生まれ育った新しい世代が力を持ち始めたときでしょう。彼らは、昔の貧しい時代を知らず、一人っ子政策で、わがままに育っている世代です。彼らは親の世代とはまったく違う環境で育っています。共産主義の理想を植えつけられたこともなく、暮らしが豊かであることも当たり前だと思っている、この世代が社会の中心になり、経済的、物質的な成長が止まった時、求心力を失った中国で、本当の危機が起きうるのでしょう。
 「共産主義」というかつての(今でも建前上は存在する)思想はほとんど意味を失ってしまっており、今後も再び求心力を持つことはありえないでしょう。江沢民氏は、そんな中、苦し紛れに、「反日」を国の求心力にする、などというとんでもない施策を打ってきましたが、戦争でも起こさない限り、「反日」思想が、長期的に中国をまとめる求心力になりえるとは思えません。
 結論として、当面、国を維持し続けるためには、経済成長をひたすら続け、生活が豊かになることによる国家への求心力をキープし続けるしかない。中国の経済政策には、日本のそれとはまったく異なるレベルの慎重さと、真剣さが求められているのです。