映画 「セデック・バレ(賽徳克・巴莱)」を観る


  
 「セデック・バレ」は、台湾の原住民である高砂族(最近はこういう呼び方しなくなりましたが)が日本の統治に反乱をおこした、歴史上の「霧社事件」をテーマにつくられた台湾のアクション映画です。

 先日、日経新聞でこの映画が紹介されていたのをみて、面白そうだなと思って調べてみると、関西では大阪九条の「シネ・ヌーヴォ」というところ1か所でしか上映していない、ということ。このGW休みの機会に、九条まで出向いて観てきました。
 
 第一部(144分)・第二部(132分)の二部構成で、合わせて276分、という恐ろしく長い映画で、今日は1日、この映画を観るだけでつぶれてしまった感じです。まあ、こんなこともGW休みにしかできない贅沢でしょう。


 さて、映画はと言いますと、前半の第一部は、反乱の勃発へ向けて話が盛り上がっていき、テンポも良く見ごたえのある感じなのですが、第二部になると、ひたすら同じような戦闘シーンばかりになり、かなり冗長な感じがします。もっと短くても良かったのでは?という気がします。
 舞台が台湾の山奥で、登場するのは台湾原住民と日本人ばかり、セリフもセデック語と日本語、というかなりマニアックな設定に加えて、この長さ。内容はアクションシーンも多く、エンターテインメント性を狙った映画のはずなのに、これでは海外市場で受けを狙うのは難しいのかな?とも思います。


 この映画で特に印象に残るのは、原住民役の俳優たちの迫力です。これに比較して、日本人俳優はみなふにゃふにゃとした感じに見えます(そういう役作りではあるのですが)。
 特に主人公 モーナ・ルダオ役の林慶台。彼は、もともと牧師さんで、映画は素人だったそうですが、そのインパクトは半端ではありません。三船敏郎という感じです。実にいい顔をしています。 もう少しだらっとさせると、松崎しげるにも似ているかも知れません。


 映画を観て感じたこととして2点書いておきます。

 一つ目は、この映画における「日本的なもの」の捉えられ方。
 映画の中では、日本の巡査や軍隊が悪者として、バッタバッタと殺されていくのですが、映画を観ているうちに、セデック族の主人公たちに感情移入していきますので、あまり違和感はありません。
 むしろ、日本人にとっては、主人公であるセデック族こそが、日本人の精神を体現している、と感じるはずです。
 この映画のテーマ自体が、台湾の原住民たちは、かつて日本のサムライに負けない大和魂を持った勇敢な人たちだった、ということにあるので、セデック族のサムライが、敵方である本家サムライの日本人と戦う、という複雑な関係になってしまっています。
 負けるとわかれば投降せずに腹切りしたり、女子供は戦争の邪魔になるからと集団自決したり、ということは、その後、日本人が太平洋戦争で行ったことそのままです。
 太平洋戦争における日本軍の行動は、他の国からは、キチガイじみた行動であるとか、狂信的であるとかのとらえ方をされがちですが、この映画では外国映画にしては珍しく、そうした行動が肯定的に表現されています。 

 外国人がサムライ魂を美化した映画としては、最近では「ラストサムライ」がありますが、このセデックバレの方が、日本人の精神をよく理解して表現しているように思えます。これはやはり台湾人の監督によるものだからでしょうか。


 二つ目は、台湾原住民の反乱事件の話を、アジア各国合作の娯楽映画として描けるようにまで社会が成熟してきた、ということ。
 最近アジアの各国では、今までは生生すぎて、映画のテーマには成りえなかった歴史上の事件が娯楽映画にされてきています。
 肉親相戦ったあまりに悲惨な記憶である朝鮮戦争をとうとう娯楽映画化してしまった韓国の「ブラザーフッド」、中国における国共内戦プライベートライアンのように戦争娯楽映画化してしまった「戦場のレクイエム」など。

 この件は、以前書いたことがあります ↓ 
中国映画 「戦場のレクイエム」を観た - Santoshの日記


 台湾においても80年代末に「2.28事件」を描いた「非情城市」がつくられ、政治的な見解がつきまとう過去の事件が映画化されるようになってきたわけですが、原住民の反乱というけっこうタッチーそうなテーマでも娯楽映画がつくられていることをみると、台湾社会における原住民部族の扱い、というのは、かなり安定した状況にあるのでしょうか。
 
 さて、翻って日本を考えると、アイヌによる「シャクシャインの戦い」をテーマにした戦争映画が作られるような時代が果たしてくるのでしょうか? 日本社会はそこまで多様性に寛容になっているのでしょうか?
 

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 「影の獄にて」を読む

 先日、映画「戦場のメリークリスマス」をひさびさに観た話を書きましたが、ネットで検索してみると、この映画にも原作があったとのこと。
 それが、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著「影の獄にて」です。
 なんと映画の主人公であるローレンス氏が、このお話の原作を書いていたのでした。



 この本、すでに日本では絶版になっているようですが、アマゾンでは中古が購入できました(定価より高かったですが)。
 昭和53年ですから、35年前に発行された本。活字の並びが郷愁を感じさせます。
 この本は、「影さす牢格子」「種子と蒔く者」「剣と人形」の3部作で構成されているのですが、映画の内容は「影さす牢格子」「種子と蒔く者」の2作の内容がもとになっています。

 
 この本を読むと、映画の出来事や登場人物のキャラクターは、原作を忠実になぞっていることがわかります。ただし、映画ではあまりにも時間が短かすぎたのか、原作の難解なテーマは、かなりの部分がカットされています。特に、デヴィッドボウイ演じる「ジャック・セリエ」にまつわる部分は、断片的なトピックをつなげただけになってしまっていて、原作で語られている宗教的なテーマはすっぽりと抜け落ちています。

 映画の中では、セリエの回想シーンで、子供の頃の弟とのエピソードが出てきます。弟が近所のガキ連中からいじめられるのを守る話や、弟が寄宿学校で新人イジメにあう(イニシエーションと呼ぶらしい)のを見殺しにしたりする話です。しかし、映画の中ではどうしてここで弟の存在が現れるのかはよくわかりません。
 原作を読めば、この弟の存在が、はじめに「種子」を蒔いた者として、物語の鍵になっていることがよくわかります。

 また、ヨノイとセリエの関係は、映画の中では同性愛のように思えるのですが、原作を読めば、勇気に対する尊敬のようなものである、ということがわかります。


 この本の内容については、下記のブログに実によくまとめられていますので、これ以上の紹介はやめておきましょう。
http://dndi.jp/00-ishiguro/ishiguro_133.php



 ローレンス氏は、二十歳ごろの若い時に、日本に赴き、1年ほど滞在した経験があり、そのために、日本人を単なる「敵」としてしてだけでなく、人間として見ることになりました。捕虜収容所での過酷な生活の中でも、ハラ軍曹のような、一般には野蛮に見えるキャラクターを客観的な視点で分析していきます。
 この本が発行された1950年代当時、イギリスでは、日本人のことをよく書きすぎているとしてずいぶんと非難があったそうです。
 現在ならどうなのでしょうか?


 むしろ現在の我々日本人は、この本を読んだイギリス人と同様に、この小説・映画に出てくる、当時の日本軍人・兵隊の姿に違和感を感じるのではないでしょうか?
 個人の人権の意識などなく、何かがあればすぐに激昂し、みなでよってたかって殴るけるの暴力をふるい、上官にはロボットのように絶対服従し、罪を行えば自ら切腹して償う。こうしたつい数十年前の日本軍の姿と、現代の日本人の姿にはあまりに大きな差があります。

 今の我々が当時の日本軍人を見る視点は、当時のローレンスの視点に近いのではないでしょうか?



 しかしそうは言っても、長い歴史の中で形作られてきた国民の文化的な特性や行動パターンがたかが60年あまりで変わってしまうことなどないでしょう。
 私含め、我々日本人は、いつでも当時の日本軍人を再演できる可能性を持っているのだと思います。

 それが良いことなのか、悪い事なのかはわかりません。
 20〜30年前の日本では、それを避けるべき悪いことだ、と考える風潮があったと思うのですが、最近はむしろそれが良いことだ、昔の日本軍人の精神に戻るべき、と考える人が多くなってきているように思えます。
 私が自分が左寄りだと考えているわけではないのですが、この傾向には生理的に違和感を感じている今日この頃です。
 
 

久々に「戦場のメリークリスマス」を観る

 今日テレビでBSの映画チャネルをつけたら、大島渚氏の追悼で、「戦場のメリークリスマス」をやっていました。
 もともと観るつもりでもなかったのに、思わずそのまま最後まで観てしまいました。

 
 前回観たのは恐らく20年数年前だったと思いますので、もうずいぶんと昔のことですが、今回観ても当時の印象とは同じで、特別新たな発見があるわけではありませんでした。

 独特の不思議な世界観があるのですが、映画自体は、特別たいした作品だとは思えません。血沸き肉踊るスぺクタルシーンがあるわはないですし、感動のストーリーがあるわけでもない。戦争の狂気や理不尽さをテーマに語ろうとしてしているのであらば、それもまた突っ込みが中途半端な気がします。


 デビッドボウイや、坂本龍一ビートたけしといった思い切ったキャスティングの妙が、話題作となった理由でしょう。

 デビッドボウイは実に格好いい。当時は ちょうど"LET'S DANCE"が流行ったころで、MTVでずいぶんと彼のビデオを見たものでした。
 たけしは、俳優としてはまったく素人でありながら、屈託のない笑顔が実に印象的で、「ハラ軍曹」のキャラクターにびったりはまっています。
 坂本龍一の演技が、せりふも聞き取りにくく一番イマイチかと思いますが、日本軍の大尉なのに、なぜか80年代のテクノ風の化粧をしているのは、何とも不思議です。



 しかし何といっても、この映画を特別なものにしているのは、そのテーマ曲 "Merry Christmas Mr.Lawrence"でしょう。
当時はよくわかりませんでしたが、今この曲を聞くと、すごく日本を感じさせる音楽だったことに気が付きます。

和風のペンタトニックを中心にした、わらべ歌のようなシンプルなメロディー、それを包み込み西洋音楽のハーモニー、この世界観は坂本龍一独自のものです。
 最近でもときどきYOUTUBEで、この曲を聴くことがあります。


 日本人の私にとっては、日本の伝統的な「ヨナ抜き」の音階を使ったこの曲は自然になじめるのですが、全く違う音階をベースに育っている欧米人がこの曲を聞くとどう思うのか、には非常に興味があります。
 おそらく、同じ音を聴いていても、まるで違うとらえ方をされているのではないか、という気がします。

 私は、日本から、韓国・中国・ベトナム・タイくらいまでの東アジアエリアでは、音楽に関して非常に近い感覚があるなあと感じています。こぶしの効いた節回しや、多彩に展開するコード進行。醤油やニョクマムナンプラーの匂いを共通においしいと感じられるように、独特な匂いを自然に受け入れることができます。

 一方で、これが西欧になるとまるで違う音楽となり、私には実に味気なく聞こえてしまいます。UKの最近のロックなんか、コード進行が少なすぎて、まるで情緒を感じません。ドイツで食べるラーメンのような(ドイツにはMOSCH MOSCHというラーメンチェーンがある)、醤油やダシの効いていないスープを飲んでいるような感じです。酒の肴にスルメや柿の種を食べるのか、オリーブを食べるのか、という違いかもしれません。

 世界の音楽と食文化をくらべれば、地域的に、共通する線引きができるような気がしています。



以前、ドイツでタクシーに乗った時、私が日本から来たと言うと、運転手が、なぜか中島みゆきのCDをかけてくれたことがあります。その運転手はトルコ系だったのですが、彼曰く、彼はトルコ系なので日本の音楽のメロディーがなじむのだ、ということで、どこかで入手したCDを気に入ってそのまま聞いているそうです。

 そのあと、トルコに出張した際、TVでおじさんおばさん向けの大衆音楽番組をやっていたので、ずっと聞いていたのですが、日本の音楽とはかなり感覚が違うなあ、と感じました。ただし、西欧の音楽とは違う節回しと音階がありましたので、彼らは、東アジア圏と西欧圏の間にいるのかもしれません。 

 いつか世界の大衆音楽について、マップを描いてみたいものです。

 

「個を動かす 新浪剛史 ローソン作り直しの10年」 池田信太朗著 を読む

 正月休みで時間ができたので、夏休み以来、久々にこのブログをアップデートします。 
 2010年〜11年ごろには、本を読むたびに、記録がてら感想文などを書きこんでいたのですが、昨年は職場の組織変更等で仕事の負担が増え、すっかりブログを書く時間がとれなくなってしまいました。

 
 さて、「コンビニ」という、日本で独自に進化を遂げた業界については、以前から興味があり、ずいぶん前にも、セブンイレブンに関するこんな本を読んで文章を書いたことがあります。↓
「セブン・イレブンの仕事術 一兵卒のビジネス戦記」 岩本浩治著



 今日の本は、コンビニ業界不動のNo.1で、常に研究対象とされている「セブンイレブン」についてではなく、業界2位の「ローソン」と、その社長である新浪剛史氏の、この10年間の取り組みを分析した本です。

 新浪氏の行ってきた取り組みは、単に先行するセブンイレブンの後追いではなく、実は「コンビニ」の定義自体を変えてしまうような、まったく独自の戦略ストーリーによるものでした。この本では、そのストーリーを構成する各要素について、象徴的で具体的な事例の紹介から、その背景となる考え、さらにそれら各要素が結びついた大きなストーリーの全貌、までをキーパーソンへの取材を通じて解き明かしていきます。
 さすが「日経ビジネス」記者の方が書かれているだけあって、構成やストーリーはたいへんわかりやすく、読みやすい本です。


 よく世間で紹介されているセブンイレブンの勝ちパターンとは、以下のようなものだと思います。

○POSシステムを活用した単品レベルでの販売管理
○本部主導の商品政策と、フィールドカウンセラーによる販売施策の現場への徹底
○現場の各店舗レベルで仮説・検証のプロセスを繰り返す発注業務
ドミナント出店と効率的な物流・配送システムの追求
○加えて、上記を徹底してやり抜くこと


 これに対して、この本で書かれているローソンの目指す方向性はまるで異なっています。

○それぞれ異なる顧客=「個客」に対応するのが第一目的。
○そのために店舗は画一である必要はなく、個客に合わせて多様性をもたせる。
  (生鮮食品の取り扱いやタイアップ店など、店舗のフォーマットもバラバラ、ブランドの色まで違っていたりする)
○現場での顧客との密なコミュニケーションを実現するため、本部から支店や加盟店へ権限を委譲。
 (商品開発や、店のフォーマットまで支店単位に権限があり)
○本部は、個客の消費を把握するため、「会員カード」によって入手したビッグデータの分析を行い、より高精度の商品開発や生産計画を実施。
 (「会員カード」では、POSデータではカバーできないリピート購買の状況や、詳細な顧客属性の分析が可能。素人の各店舗に仮説・検証をやらせるよりも、こうしたデータをプロが分析することによって本部主導による自動発注を目指す)


 これらの内容は、セブンイレブンの思想とは正反対ともいえるようなものですが、この本を読んでいくと、「個客」に対応するという目的のもとに、全体が一つのストーリーにまとまっていることがわかってきます。


 セブンイレブンのやり方は、本部では、データ分析に基づいた全国一律の商品政策と、効率を追求した仕組みづくりを追求、現場の店舗では販売の最大化とロスの最小化のため、仮説・検証による日々の販売予測に命をかけさせます。

 一方、ローソンは、現場へ権限移譲することにより多様化する個客へのフレキシブルな対応に強みを持つことを狙い、小さな本部は、大きな仕組みづくりを通じてCRMとSCMの推進に集中しようとしています。

 その中で、今までコンビニ経営の「キモ」とされていた「発注業務」について、ローソンは、本部主体での発注提案、個店は一部の調整以外は自動発注化、という形を目指していることは、セブンイレブンとの比較において非常に面白い事例です。

 後追いのプレーヤーだったローソンには、セブンイレブンと同じ戦略では常に勝てない、という現実がありました。それを踏まえたうえで、自分たちのリソース(それが好むと好まざるとを限らず)を使って、どこで勝負すべきなのか、を試行錯誤し、新浪体制のもと10年近い時間をかけて、今の戦略ストーリーを形作ってきたようです。
 ローソンは、セブンイレブンとは異なる形態の「コンビニ」を、RE-INVENTしようとしているのでしょう。


 しかし私には、この本を読んだ限りにおいては、まだローソンの戦略は、セブンイレブンのものほどには、切れ味が良くないように感じられます。
 もしかするとそれは、新浪氏自身が述べているとおり、戦略の全貌や「キモ」をディスクローズせず、競合を煙に巻こうとしているためなのかも知れません。

 今後、コンビニ業界での勝負がどうなっていくのか、興味深いところです。
 


 私個人の印象としては、機械のように冷たい感じのするセブンイレブンよりも、人間のファジーさを感じさせるローソンの方が、買い物先としては行きたくなる感じがします。
 コンビニでの買い物が、単なる利便性の追求ならば、言い換えれば、コンビニが単なる品物の「配給所」のような機能を期待されているのならば、セブンイレブンの方向性は最強ではないかと思います。
 しかし、買い物には、たとえ日常の買回り品であろうとも「感性」の要素があります。
 「楽しさ」のない買い物は実に味気がありません。
 その点で、ローソンの方向性には共感できるものがあるのです。

 

「グローバル・エリートの時代 個人が国家を超え、日本の未来をつくる 」 倉本由香利著 を読む

 待ちに待った夏休み、実に久々にブログ更新します。
 前回書いたのは、GWでしたので、このペースだと次回はお正月休みでしょうか?

 ここのところあまりに忙しくて、家では本を読む気力すら無くしていたほどでした。ましてやプライベートで文章を書く気力・体力などまるでありませんでした。

 この本も、買ったままずっとそのままになっていたのですが、この夏休み、プールサイドで日光浴しながら、やっと読み終えることができました。

 
 まず、この本を読んで感じたのは、話の骨子・枠組みがよく整理されていること。いろいろな本を読んでいると、いまいち全体の構成がわかりにくかったり、ロジックの流れがつながっていなかったり、といった本にあたることも多いのですが、この本は、そういうあいまいさがありません。はじめから明確な構成にもとづいて書いたのだな、ということがわかります。

 内容についても、隙がありません。読んでいる途中で疑問に思う点がいくつか出てきてはいたのですが、読み進めば、それらの大部分に対して、ぬかりなく説明や答えが提示されていました。

 まさに「漏れなく、ダブりなく」書かれた本だなあ、という印象です。

 また、基本ストーリー以外に、著者の考える具体的な施策の例もちりばめられており、この失われた20年間で多くの日本企業の業績が低迷する中、日本の強みを活かし日本企業を強くしたいという、著者のひとりの日本人としての強い思いも感じられる本です。



■この本を読んで、「ああ、そういうこと!」とあらためて気付かされた点がいくつかありますので、書いておきます。


1)日本の「グローバル化」には、3つの波があるということ。
 一つ目のグローバル化の波は、「販売のグローバル化
  〜明治時代から高度成長期にかけて、日本製品を直接海外で販売するためにおこった販売機能や物流機能のグローバル化
 二つ目のグローバル化の波は、「生産のグローバル化
  〜80年代から本格化した、貿易摩擦円高への対応として生産工程やソフトウエアなど労働集約的な過程を海外に移転する動き。

 三つ目のグローバル化の波が、「組織のグローバル化
  〜新興国市場の拡大に対応し、外国人をとりこみ、研究開発・経営など付加価値の高いプロセスをグローバル化する動き。これからはこの新たなグローバル化に対応していかねばならない。


 このように整理されると、今まで漠然と使っていたグローバル化という言葉の意味する範囲が、明確に輪郭を持ってきます。


2)グローバル化した組織においては、組織を「グローバル部門」と「ローカル部門」の二本立てにし、それぞれ別な業績評価基準で運営していくべきだということ。
 またそこで働く人たちは、「グローバルエリート」「ローカルスペシャリスト」「ローカルサポーター」に、役割と評価基準を明確化されるということ。
 


 これが『イノベーションのジレンマ』で述べられていた、既存事業にとっての最適な経営判断が新規事業にとって足かせとなる、という普遍的なジレンマの解決策にもなるという考えです。

 かつての日本の多くの製造業では、国内の既存事業をメインに推進するメーカー本体に対して、「商社」が、実は「グローバル部門」の役割を担ってきた、という指摘はまさに目から鱗で、腑に落ちる話です。

 また、組織のグローバル化を果たした将来の日本企業のイメージを、2025年の架空の企業「A社」の具体事例として説明する手法は、具体的に著者の言わんとすることがイメージできて、実に良い手法だな、と感じました。
 


■次にひとつ疑問に思ったことを書いておきます。

 以下の点は、著者の語るストーリーの本題からは少し外れてはいるのですが、実際に、グローバルでエリートになれず、日々苦戦しながら仕事をしている私自身が、日ごろ直面し答えを模索していることでもあります。



 この本は、グローバル化において求められる組織や人といった枠組みの話が中心ですが、結局、企業が勝っていくためには、どこで何で突き抜けるのか、という経営戦略の話になってきます。
 その方向性の例として、著者は、こだわりの製造技術や、おもてなしのサービス業といった例を挙げているのですがが(これはあくまでなぜ日本人がなぜそうしたグローバル企業においてメインプレーヤーになりうるのか、という文脈で出てきている話なのですが)、こうした方向性で差別化して勝つということと、著者のイメージする「グローバル組織」のあり方が矛盾しないのかについては、疑問を感じています。

 著者は、日本人が強みをもつ製造技術を活かし、これをグローバルエリートが、明文化して、論理的にさまざまな地域の人達に説明・訓練していくことによって、「日本の文化的背景に基づく製造業の強みを、グローバルな組織の競争優位性に変えていく」ことができる、と述べています。

 私がいつも疑問に感じているのは、こうした強みは、著者も指摘するように日本の「文化的」背景に根差しているがゆえに、たとえ「見える化」し、マニュアル化したとしても果たして著者のイメージするレベルまでグローバル展開することが、本当にできるのだろうか、ということです。

 日本の製造業そしてサービス業における強み(また弱みにもなりえますが)は、仕上げの細かさ・完璧さへの追及などもありますが、ただマニュアル化されたものに従うのではなく、現場が、自ら判断し、状況に合わせ、周囲と自律的に調整しながら、日々改善を行っていくところにあります。
 製造業では、これが「カイゼン」という言葉で概念化されていますし、サービス業では、セブンイレブンの「仮説・検証」などがそうでしょう。
 
 私自身、海外のひとたちと仕事をする上で感じるのは、こうした発想は、きわめて日本文化、また日本社会に根差した考え方のため、海外のひとたちには理解させることが非常に困難である、ということです。東アジアのひとたちならば、まだ可能性があるのかなとは思いますが、欧米の人達に理解させることはそう一筋縄にはいかないでしょう。
 ものづくりという点では、日本の対極としてドイツのものづくりがありますが、彼らのものづくりへの思想、プロセスといったものは、日本のものづくりとはまるで異なります。正反対といっていいかもしれません。しかし、彼らのやり方の方が、日本のやり方よりグローバル展開には適しているようにも見えます。
 
 これは「経営理念」の共有というレベルではなく、もっと土着的な、文化的な問題だと思います。
 
 トヨタコマツのような企業はそれをすすめているということですが、実際にはどこまでできているのでしょうか? 単に仕組みづくりや方針だけではなく、各国のローカルのオペレーションの現場まで風土として落とし込まれているのでしょうか?

 セブンイレブンは、日本ではあれほど「仮説検証」の考え方の徹底と、それを実現するシステムづくりをすすめ、それを競争力の根源にしてきましたが、それは海外の店舗においては、適用できているのでしょうか? アメリカのセブンイレブンの店長は、いろいろなパラメーターを設定しながら自分で販売予測をたて、日々発注し、日々その検証をしているのでしょうか?


 これは単に私の疑問ですので、きちんとやればできるものなのかも知れません。ただし、「2025年のA社」の姿にまで持っていくためには、単に、「明文化して、論理的に説明する」、というレベルの一般論ではなく、もっと本質的でぐさっと刺さるアクションが必要であるように考えています。

 それが何なのかはわからないのですが、この本のストーリーを実際に実現して競争力のある企業をつくるためには、そこが一番のポイントであるように、私は感じました。


 バラバラと書いてきましたが、この本は、「組織・人」の面に関して、実によくまとまられた本です。
 これに、実際の個別の事業において、どこで何で勝つのかという軸を組み合わせたときに、どのような具体的な最適解がありうるのか、これを考えていかねばならないなあ、とビーチサイドでつらつら考えた次第でした。



 タイ カオラックの、SAROJIN HOTELにて。

「中国人エリートは日本人をこう見る」 中島恵著 を読む

 年初に会社の組織変更があり、それ以来あまりに仕事が多忙になり、このブログもずいぶんとほったらかしになっていたのですが、今日は久々に少し書いてみます。

 「中国人エリートは日本人をこう見る」
 Facebookで紹介されているのを見て読んだ本です。
 文章はとても読みやすく、この週末にいっきに読んでしまうことができました。


 
 最近の日本では、圧倒的な国力を背景に、既存の世界のルールを無視しますます自己主張を強める「中国」という存在を、警戒し敵視する意見が支配的になっています。
 書店へ行けば、扇情的なタイトルの、赤い表紙の本がずらりと並んでいます。
 そこでは中国という国も、そこに住む人たちも、不気味なカタマリとして、観念的にひとまとめにされているように感じます。


 しかし、この本のアプローチは、昨今の時流に乗ったそうした扇情的な内容の本とは大きく異なります。
 日本や中国に住む若者たちが、日本、そして日本人をどう見ているのか、著者は多くのひとびとにインタビューを行い、そこで聞きだした内容を、淡々と積み上げていきます。
 語るのはあくまで彼ら中国の若者たちであり、著者は最後まで自分の結論を押し付けることはありません。

 

 この本を読んであらためて感じたことは、中国は、日本とは異なり、ひとつの「カタマリ」ではないということ。

 日本でのマスコミの報道を見ていると、どうしても中国という国と、そこに住む中国人が一緒になって、ひとつのカタマリのように感じられてしまいます。しかし、本来、「中国」と「中国人」とはまったく異なるものだと思います。

 もともと多くの異なる文化の人たちをとりこんで形成された、いわばひとつの「世界」である中国は、ほぼ単一民族で構成されている日本とは、「国」という概念の定義自体が異なっています。
 今の中国は、ヨーロッパで言えば「EU」に相当するようなものではないでしょうか。


 さらに中国では、同じ地域に住む人たちをみても、日本にくらべ集団よりも個の力が強くなります。
 中国の人たちは、「砂」のようなものではないかと思います。それぞれの「個」の輪郭がはっきりしているために、型に入れて成型しようとしても、型を外せば、すぐにバラバラになってしまう。これは、同じ東アジアで見れば、おとなりの韓国の人たちも、中国の人たち以上に持っている傾向だと思います。

 それと比較すれば、日本人は「粘土」のようなものでしょうか。「個」の粒子ははっきりせず吹けば飛ぶようなものですが、「型」にはめて成型するとしっかりと一つに固まって、砂の粒子を圧倒する。
 よって、外からみたとき、不気味なひとつのカタマリとして見えるのは、むしろ日本、そして日本人なのだと思います。
 中国や韓国の人々から見ると、共通の文化・価値観をもち、個人の存在が見えず、全体の空気に従って行動する日本人は、ひとつの不気味なカタマリとしてその国と一体化して見えることでしょう。

 しかし多くの日本人は、中国の人々を見るときに、あたかも彼らも自分たちと同じように一つのカタマリであると、自分の日本人の尺度で勝手に誤解しているのではないでしょうか。


 この本は、中国の人たちが、輪郭のはっきりした個の集合体であるということを、あらためて教えてくれます。
 政府のスポークスマンが語る内容と、人びとが考えていることが同じわけであるはずなどない。
 そうした、実に当たり前でありながら、ふだん忘れてしまっていることをあらためて気づかせてくれるのです。




 中国に関しては扇情的な内容の本が多い中、この本の内容はビジネス的に考えるとインパクトに欠けるのかも知れません。
 しかし、どんな物事も、一方的に一刀両断にできるほど、シンプルではないはずです。
 安易に大衆受けする観念的なアプローチではなく、実際に人びとが語る多様な内容をシェアし、面ベースの交流を積み上げていく。
 時間はかかろうとも、こうした帰納的アプローチが、ほかの国を理解し、また自分の国をより理解する唯一の道だと思います。
 この本は、そのための一つのステップになることでしょう。



 過去の中国関連の記事はこちら

「父・金正日と私 金正男独占告白」五味洋治著 を読む

 この本、ずいぶんと話題になっていて、AMAZONで注文しようとしたらしばらく売り切れになっていました。書店でも売り切れのところが多かったようです。何とか入手して、やっと休みになった今日、読んでみました。
 
 金正男氏は、いままでたびたびマスコミに顔を出していますが、テレビでインタビューにこたえているのを見ると、わかりやすい英語や韓国語で、落ち着いて常識的に話しており、好印象を受けます。また、その身なりも、太って髪も薄いのに、ネックレスをしたりやけにオシャレにしているところが、自分の周りにもよくいそうな、ちょっと勘違いな、もてないチョイワルオヤジという感じで、妙に親しみを感じてしまいます。
 存在がぶっとんでいて、理解しがたい北朝鮮の独裁権力者親子の姿とは違って、金正男氏の人間らしいキャラクターは、日本でも多くの人に親しみをもたれているようです。
 著者は、今まで7年間にわたり金正男氏とメールでのやりとりを続け、さらに本人との直接のインタビューも2度行ったそうです。海外のマスコミの中でも、もっとも多く金正男氏とコミュニケーションをとってきた人の一人なのでしょう。いつもマスコミでは断片的なコメントしかしない金正男氏が、長期間のやり取りを通していったい何を語っているのか、多くの人にとって興味津津だと思います。
 特に、金正日が亡くなり、金正恩氏への政権移譲がホットトピックになっている今、金正男氏の動向はますます注目を集めています。このタイミングで今まであたためられていた内容が本として出版されたことは、何らかの意図があったとのではないかと思ってしまいます。


 インタビューメールでのやりとりの中で一貫して述べられているのは、以下の3点だと思います。

1.北朝鮮の経済状況を改善させるには、改革・開放路線を進めていくしかない。それなしの「強盛大国」など絵空事である。しかし、改革・開放にともなう人や情報の出入りにより体制を維持することが難しくなるため、それができていない。

2.自分は、西側資本主義社会の自由に染まり、経済の改革・開放路線を進めようとしたため、後継者候補から外れた。

3.三代世襲は世界の笑い物である。しかし、金正日氏は安定的な権力の承継のため、やむを得ず後継者を世襲せざるを得なかった。若く経験のない金正恩にとって権力承継は難しい。

 これ以外は、本人のプライベートに関する断片的な内容です(こちらの方が興味があったりしますが)。


 これから素直に考えると、金正男氏がマスコミを通じて情報発信したいポイントは、北朝鮮は、改革・解放に舵を切るべきであり、その時の指導者は、金正恩ではなく、韓国なまりの朝鮮語を話すほど西側の資本主義社会に慣れ親しんでいる自分である、ということのように思えます。
 インタビューやメールによる情報発信の目的は、そのための布石として、国外で金正男期待論をつくっていくことなのでしょうか。

 

 日本では一般的に、北朝鮮は閉ざされた国として人々の顔も見えない不気味な存在のように認識されていますが、そこに住む人々は、南側の人々と同じ朝鮮民族であり、基本的にネアカで、情に厚く、礼儀正しい人達のはずです。

 私は、92年に会社からの派遣で上海に留学していたのですが、当時は中国と韓国の国交成立以前で、上海の各大学には北朝鮮からの留学生が何人も来ていました。私は当時、韓国留学で学んだ韓国語をまだ忘れずに話していたので、彼らと親しくなり、よく酒を飲んで、ギター弾いたり、彼らの寮の部屋に泊まったりしたものです。寮の部屋に、金日成肖像画が貼られていたのだけには違和感を感じましたが。

 北朝鮮から来ていた留学生にもいろいろなタイプがいて、真面目に勉強しているヤツもいれば、遊び人もいました。特に印象に残っているのは、いつも上海人美女をはべらしている遊び人学生で、何かしら中国でも商売をやっているらしく羽振りもよく、当時は少なかった外資系ホテルのDISCOをベースにしていていました。音楽が好きだった私は、なぜかその北朝鮮学生から、そこのDISCOでDJをやらないか、と誘われたりしたものです。
 また、旧正月になると北朝鮮の留学生たちもみな国に帰るのですが、そのとき親戚に炊飯器などのお土産を買っていかなければいけないのにお金がない、ということで、学生から相談され、お金を貸してあげたこともあります。(その後、私の仕事が忙しくなったこともあり、結局お金は返してもらっていませんが)

 上海に留学に来ていた彼らが、その後いったいどうなったのか、今ではまったくわかりません。最近になって、FACEBOOKのおかげで昔の友人と20年ぶりくらいに連絡がとれるようになってきているのですが、北朝鮮の連中だけはまだ対象外です。北朝鮮の実家の住所を紙に書いてくれた人もいたので、ひょっとすると手紙を出せば届くのかも知れませんが。


 東アジアに残った最後のフロンティアである北朝鮮は、これからいろいろ動きがありそうです。
 市場が開けば、インフラから消費財、奢侈品まで一気にビジネスチャンスが生まれることでしょう。
 そろそろ私も、すっかり忘れてしまった韓国語をまた思い出すべきタイミングのようです。