松崎隆司著 「ロッテを創った男 重光武雄論」を読む

21年に読んだ本です。

 

「ロッテ」と言えば、子供のころからお菓子のブランドとして馴染みが深かったのですが、戦後にゼロからできたばかりの新興メーカーだったのですね。1950年代~70年代の日本と、70年代~80年代の韓国でのロッテの事業の成長はすさまじいスピードで、スゴイ勢いで走り続けていたことがわかります。

バブル崩壊後の停滞した時代を社会人として過ごしてきた自分にはこのスピード感は、感覚的に掴みにくいものがあります。

昔、韓国で過ごしていた89年当時、ロッテ百貨店やロッテホテル、できたばかりのロッテワールドというのは、ソウルでは最先端のスポットという印象でした。
最近では、1年前に出張したハノイで一杯飲みに行ったルーフトップバーがあったのも、できたばかりの超高層ビル ロッテセンターでした。日本ではすっかり安定した事業になっているように見えるロッテも、海外ではまだまだ攻め続けています。
重光氏の歴史は、日本と韓国の戦後の歴史を象徴しているように思えます。

ジョンハースト著 「超訳 ヨーロッパの歴史」を読む

21年の夏休みに読んだ本。
普段は仕事に関係するような本ばかりになっているのですが、折角の夏休みですので、普段読まないものをということで。


ヨーロッパの歴史に関する本はドイツ在住時代にいろいろ読んだのですが、もともと昔はヨーロッパにはてんで興味が無く、学生時代に世界史も取らなかったし、基礎知識がまるでなかったのと、歴史の出来事や登場人物が多く複雑すぎて、全体像がなかなか掴めませんでした。この本はまず60ページほどでヨーロッパの歴史を大きく語ってしまおうという意欲作?で、難しい本をなかなか読み続けられない歴史初心者の僕にはピッタリです。

ルネサンスの意義や、それを否定した科学革命、さらに啓蒙主義への流れ、それと相反する動きとしてのロマン主義など、今までバラバラと聞いていた内容が、かなり単純化したひとつのモデル-ストーリーの中に位置付けられており、この本を読んで初めてそういうことか!と腑に落ちたことが多くあります。世の中、まだまだ知らないことばかりです。

 

木村幹著「韓国愛憎」を読む

1年前に読んだ本です。

著者は、'66年生まれで学年は僕の1年上、韓国に絡み始めたのは90年なので、僕が留学していた1年後、ということで、ほぼ僕と同世代・同時代で、30年以上韓国を研究されてきた方です。僕は、仕事を始めて以来、中国・欧州・ブラジル等がメインの活動地域となり、韓国とはすっかり没交渉になり、僕のイメージする韓国は基本的に1989年時点で止まってしまっているのですが、著者はその間継続して韓国を研究し、日韓の共同研究にも参画され、日韓関係の変化を身近に経験されてきています。その社会変化をプライベートなトピックを織り交ぜて綴った半自伝的な半生記なのですが、既にそういう本が書ける年齢になってしまったのかー、ということにも感慨深いものがあります。
また、この年代でいま海外関連の仕事をしている人には、子供の頃にBCLをやっていたという人が実に多い、というのもあらためて感じることです。今の人にはBCLと言っても理解するのが難しそうですが。

リード・ヘイスティングス、エリン・メイヤー著 「No Rules」を読む

ちょうど1年前に読んだ本です。


Netflix創業社のリードヘイスティングと、エリンメイヤーの共著で、グローバルに急成長を遂げ躍進し続ける(僕もお世話になっている)Netflixが、試行錯誤しながら構築してきた独自の仕組みやカルチャーを紹介しています。
エリンメイヤーさんは、The culture map 「異文化理解力」というビジネス上でよく遭遇する文化の違いによる摩擦や誤解を切味良く分析・整理した楽しい本を書かれている方です。

Netflixは「自由と責任」をモットーに、世の中の多くの会社が目指しているやり方とはまるで違う(あるいは正反対な)アプローチで、素晴らしい業績を上げているそうです。例えば休暇や勤務の規定がない、出張旅費の規定も経費の承認プロセスもない。当然関係部署に合議を取っていく決裁のプロセスもない。業績評価の基本である目標管理制度もない。KPIもない。成果報酬型のインセンティブもない。そのかわり、業界のトップ人材を、業界トップレベルの待遇で雇用し、彼らに完全な裁量権を与える。パフォーマンスが並のレベルであれば十分な退職金を払って去ってもらう。これらは普通では考えられないやり方ですが、Netflixという会社の事業においては、ルーティンやオペレーションを間違いなく実行するよりも、優秀な少数のメンバーに彼らの創造性を最大限発揮させることが企業の価値の源泉になるという考えが背景にあります。これらは表面だけを見ると一見非常識なもののように思えますが、背景を知るとNETFLIX社の文脈の中では合理的な理由で作られてきたことがわかります。

ここで出てくる質問は、アメリカで出来てきたこうしたNetflix独自のやり方が、アメリカ以外の国で通用するのかどうか? そこへの答えが最終章にあり、各国でNetflixがどう自分達のカルチャーを適用させていっているのかが紹介されています。ここでなぜエリンメイヤーさんが著者だったのかがわかるわけです。

世の中全体の風潮としては、業績連動インセンティブ全盛の肉食の時代があり(中国のような国では今もこれが有効なようですが)、それに対し最近は若い世代中心にパーパスや理念や社会課題解決がモチベーションとなる風潮があり、右も左もそれになびいている感がありますが、Netflixはそれらには組せず自分達の独自の道を切り拓いているわけです。このやり方はNETFLIXの独自の文脈に結びついているので、仕組みだけを真似してもワークするものではないと思います。成功する会社にはやはり理由があるわけですね。

藤井保文著「アフターデジタル2 UXと自由」を読む

2年前の年末年始休みに熟読した本です。
最近はUXとかDXとか、7年前に日本にいたときには全く耳にしなかった言葉が氾濫していてすっかり浦島太郎状態なので、いったいその思想や考え方は何なのかを理解したいと思っていたのですが、この本は大きな視点でそれをわかりやすく説明してくれています。スタートアップよりもレガシー企業で働いている人たちを対象読者にしていることもありピンと来やすいです。また紹介されている中国のプレーヤーの事例も、30年近く前に中国で生活していた感覚からすると、その価値観がよく理解できます。

・製品を販売することがゴールの従来型の「バリューチェーン」から顧客の成功がゴールの「バリュージャーニー」へ。世界観を体現したUX(顧客体験)を提供するジャーニーに共感した顧客が乗り続けるモデル。
・顧客と高頻度の接点を持ち、顧客を属性レベルではなく「状況レベル」で理解して最適な商品・サービスを最適なタイミングで提供するプレーヤーが強くなる。メーカーはそこに商品を提供する下請けになる傾向。
・商品の購買はジャーニーに埋め込まれていく。関係ない分野の商品でも世界観が好きなので購入してしまう。検索や比較検討という行動が起こらない。
・中国では社会的な問題が解決されて皆が便利になる「利便性」がDXの原動力だった。金銭的に豊かになるという共通の太い軸を中心に価値観が展開。少数のプレーヤーがネットワーク効果で独り勝ち。一方で既に社会的に大きなペインが存在しない日本では自分らしい生き方を獲得する「意味性」が重要になる。多様な世界観を体現する選択肢の中から自由にジャーニーを選択し、ジャーニーのUXはテクノロジーでアップデートされる社会へ。
・オンラインベースの社会では、企業が社会のアーキテクチャーの設計に参画できる(インターネットのアーキテクチャーがそうだったように)。データ管理等によるディストピアを招かないためには、どんな世の中にしたいのかという「精神」が重要になる。中国のプレーヤーにはそういう意識を持っているケースが多い。
・在来型の資本主義は、利潤を生産活動に再投資するループ。バリュージャーニー型ビジネスでは、剰余価値である利益とデータをUXの企画に還元するというダブルループ
・レガシー企業にとっては、時代の変化に合わせて価値を再定義し、テクノロジーを活用して実現することが必要。利便性はコピーできても世界観やブランドは模倣できない。
・・・・
まだいろいろありますが、ビジネスの技術的や方法論の話に留まらず、テクノロジーやUXとかいうもので、どういう社会を作っていきたいのか、という視点がコアにあるところがエライです。結局、ビジネスは人が共感して動いていくことだと思いますので。

ブルネロ・クチネリ著 「人間主義的経営」を読む

このブログ、一時期集中的に書いていた時期があったのですが、その後いろいろ忙しくなり、もう10年近くも放置していました。
最近iPad用のキーボードを買ったこともあり、また軽く書いて見ようと思います。
まずは過去にFacebook等でたらたら書いていたことの転載から。

この本はファッションブランド「ブルネロクチネリ」を一代で築き上げた創業社長の自伝/経営回顧録ですが、ビジネスの話は少なく、哲学・文化や随想、社会貢献の内容がメインです。ブルネロクチネリというファッションブランド自体には全く縁がなかったのですが、この会社は「人間の尊厳」を大切にすることを理念とし、職人に対する高い給料や待遇、職業学校の運営、本社を置く村の再生・環境整備など、一貫した理念のもとに事業を続け、結果として大きな成長を遂げ、高い収益を上げているとのこと。

「歴史」や「ストーリー」が重要なブランドの世界で、一代でゼロからトップブランドを築き上げた、ということは驚きですが、そこにはガツガツした資本主義っぽい生臭い話はまったく出てきません。

人間の尊厳を尊重し、美しさを求め、自然や歴史との調和を図る ー 経済的な話よりもこうした理念を追求してきた話なのですが、こうした理念をどう経済的活動であるビジネスにつなげて成り立たせてきたのか、についてはとても気になります。
特にブランドが確立して独自の価値が認知されるようになるまでの立ち上げ期では、高い値付けも難しいでしょうし、販売の量も出ない、一方で高い品質には妥協できず、職人にも良い待遇を与える、という矛盾をどう解決してきたのか。倫理的な態度で理念を語ることによって、サプライヤーや販売先といったパートナーをつくってきた、ということはちらっと触れられていますが、それだけではこれだけの事業の成長は起こりえないでしょう。もっと独自の仕組みがあったはず。この本のテーマとは合わない内容だとは思いますが、そこがこの本を読んでいてずっと気になっている点です。

こうした経営理念は、今でこそ共感を呼ぶ時代になってきていますが、つい20-30年前であれば大きな違和感を持たれていたのではないかと思います(特に米国や日本では)。彼が40年前から一貫してこの考えで事業を行ってきているということは驚きです。またこの事業がこれだけ成功しているということは未来へ向けた希望、そして勇気を我々に感じさせてくれることだと思います。

「あの戦争は何だったのか」 保坂正康著 を読む


 GWもあっと言う間に最終日。
 明日からはまたバタバタの生活になりますので、久しぶりに重めのテーマについて書いてみます。


 この本、宣伝用の帯に書かれていた塩野七生氏の推薦文、
「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探究することである、とマキャヴェリは言ったが、戦後日本人はそのことをしてこなかった。この本はそれを教えてくれる」 
を見て、「まさに然り」と思い読んでみました。


 「大人のための歴史教科書」という副題がついているように、内容は、2.26事件以降の太平洋戦争の流れを、いくつかのトピックを拾いながら教科書にざっと追っている感じです。
 内容の殆んどは、今まで多くの書籍で語られてきていることと重なっていると思いますが、「戦争をあおったのは、陸軍よりもむしろ海軍だった」、などの独自の視点もみられます。


 著者がこの本を通じて書こうとしているのは、本の「あとがき」に明確に書かれている通り、以下の2点での太平洋戦争批判です。

 1.戦争の目的は何か、なぜ戦争と言う手段を選んだのか、どのように推移してあのような結果になったのか、についての説明責任が果たされていないこと。
 2.戦争指導にあたって政治、軍事指導者には、同時代からは権力を賦与されたろうが、祖先、児孫を含めてこの国の歴史上において権限は与えられていなかったこと。
 

 上記の2点目のポイントについては、「歴史上の権限」という概念がいまいちピンと来ないのですが、1点目については、まったく同感です。



 上記の1点目のポイントについては、戦後、今までずっと曖昧にされたままだったわけですが、私は以下の2つの点で、このポイントを突き詰めていくことが重要だと考えています。


 1)太平洋戦争の失敗のプロセスには、日本社会が抱える本質的な課題が象徴的に現れているが、その課題は、現代においても何ら変っておらず、最近になってもまた同じ過ちが繰り返されているということ
 2)日本国内における戦争の総括がされていないがために、対外的にみると日本の姿勢が常にぶれており、それが日本の国際的な立場をより弱くしてしまっていること。



 まず一つ目のポイントから。

 著者も書かれている通り、
 「戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく」
 「対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく」
 「現実を冷静に見ないで、願望や期待をすぐに事実に置き換えてしまう」

といった、太平洋戦争における日本軍の失敗ポイントは、まさに現在の日本の多くの企業において起きている課題そのものだと思います。

 戦後の高度成長期は、世の中の動きのベクトルがシンプルで、土台となる戦略よりも戦術面での差が競争力となる時代でしたので、こうした一つの決まった方向に集中して突っ走るという日本社会の特性はプラス面に働いてきました。しかし、高度成長期が終わり、現場での戦術より、戦略が重要な時代に入るや否や、かつて成長期に一世を風靡した多くの日本企業は、太平洋戦争における日本軍のように劣勢に追いやられてしまっています。

 製造業の世界ではいまだに、「高い技術力があれば競争に勝てる」、「製造現場でのカイゼンが競争力の根源だ」といったかつての勝ちパターンを盲目的に信仰し、知らず知らずのうちに、それと心中しかけている人たちが多くいます。
 これは、航空機を活用しながらも、結局「大艦巨砲主義」から抜け出せなかった日本海軍や、歩兵による「銃剣突撃」の成功パターンから抜け出せず、いたずらに死者を増やしていった日本陸軍と同じではないかと思います。

 一方で、戦争に勝ったアメリカ軍は、日本軍とは対象的に、軍隊以外からも広く人材を集め、信賞必罰の人事システムをつくり、変化する状況に臨機応変で対応するダイナミックな組織をつくることに成功していました。

 こうした日本型組織の持つ課題は、早くから、野中郁次郎氏等による「失敗の本質」などの本でも指摘されてきていますし、学者やジャーナリストによる研究は多くされてきているのでしょう。しかし、国として、この貴重な失敗体験を総括して、次代のためにそこから学ぶ、という取り組みはされてきていないようです。
 この課題を突き詰めていけば、単なる責任論だけではなく、アメリカとは異なる、日本人・日本社会特有の「空気」や「曖昧さ」などの文化論にぶつかっていくでしょう。しかし、日本特有の「文化」だから、では終わりにせず、それを踏まえたうえでの日本社会の持つ強み・弱みを客観的に認識し、失敗を繰り返さないための教訓と方法論を整理していく、これが求められていることなのだと思います。
 これは、昔から、もっと考えてみたいと思っているテーマです。


 靖国神社参拝の記事などを見ていると、戦争で亡くなった人たちを敬うにあたって、「彼らの死があるから今の日本がある」などという発言をよく耳にします。私は、このロジックがまったく理解できません。
 戦争に勝ったのならそうでしょうが、実際には戦争に負けたのです。命をかけて守ろうとした日本は負けてしまった以上、どう考えても200万人以上の人々は、無駄に死んでいったのです。
 この事実を、歪めて美化してもいけないですし、かといってフタをして無視してもいけない。
 この莫大な悲劇と損失を、今のまま単なる「犬死」で終わらすのか、あるいはその経験を反面教師としてフル活用して、失敗の原因を学び、将来につなげるのか。

 果たして靖国神社で眠る英霊たちはどちらを望んでいるのでしょうか?



 続いて二つ目のポイントです。
 2)日本国内における戦争の総括がされていないがために、対外的にみると日本の姿勢が常にぶれており、それが日本の国際的な立場をより弱くしてしまっていること。

今までも断片的にこのブログで書いてきたのですが、戦争についての日本の立場は、対外的な公式のものと、一般大衆がとらえているものとの間にソゴがあります。

 公式には、日本政府は極東裁判の判決内容を認め国際社会に復帰したわけであり、日本以外の国は、極東裁判の内容が日本の公式な立場だととらえているでしょう。
 一方で、日本国内では、殆んどの人が、極東裁判など、勝者が敗者を裁いた復讐劇だとしかとらえておらず、A級戦犯に課せられた「平和に対する罪」など冤罪だと考えている人が大部分でしょう。
 このことが、戦後70年近くたった今でも、問題がややこしくなっている原因だと思います。

 最近、安部首相は、太平洋戦争は侵略ではなかった、という発言をし始めて、欧米のメディアでも物議を醸しています。その背景にあるのは、安部さんとしては、「侵略」だったのかどうかは、歴史をどう見るのかという相対的な「歴史観」の問題だと考えているのに対して、対外的には日本と言う国が、敗戦後、国際社会に復帰する条件として認めた歴史に対する認識を、今になってひっくり返そうとしている、という捉え方をされてしまう、ということでしょう。
(この件については、その後、日本の国会で、戦犯の免責決議をしているため、すでに戦犯はいなくなっているという主張もありますが、この件が国外ではどこまで認識されているかはわかりません)

 これから憲法の改訂の議論が盛んになっていきますが、こうした国内外での歴史の認識ギャップの問題が整理されていない以上、国内問題が国内問題では片付かず、いつまでも中国・韓国との間では問題がくすぶり続けることは必至です。

 憲法改訂に取り組むためには、その前に、この非常にややこしい戦争総括の課題を片づけなければいけないのです。



 尻切れトンボですが、そろそろ時間切れですので、今日はここまでにします。
 明日からまた寝不足になってしまいますので。


このテーマは過去のブログでも何度か書いてきました: 「たかじんのそこまで言って委員会」 靖国問題は、日本が先の大戦の総括をしない限り片付かない - Santoshの日記

 日本の戦争責任について考える Santoshの日記